音楽ジャンルについては「ディスコ (音楽)」を、その他の用法については「ディスコ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ディスコの店内(スペイン)
ディスコ(disco[注 1])、または、ディスコテーク(discotheque[注 2])は、音楽を流し、飲料を提供し、客にダンスをさせるダンスホールである。1990年代以降はクラブ (club) と呼ばれることが多い。 「ディスコ」の語源となったのは、フランス語の discotheque(ディスコテーク)[1]であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブで代わりにレコードをかけるようになったのが始まりであり、第二次大戦後にパリに「ラ・ディスコテーク」と呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。 そのため、音楽は基本的にバンドによる生演奏ではなくレコードを流す形態をとる。単にレコードを順番に掛けるだけの場合や、DJ(ディスクジョッキー)が現場に合わせた選曲を行ったり、曲紹介やミックス、スクラッチ
概要
ディスコ音楽の場合、クラブでは、かつてニューヨークに存在した伝説的なゲイ・ディスコ、パラダイス・ガレージ[2]、ギャラリーなどでプレイされていた複数のジャンルの音楽を指し、ディスコはハウスやガラージュ等と呼ばれる音楽の元となった音楽である。
電気楽器を主体として作られてきたディスコ音楽は、電子楽器を主体として作られる実験的なディスコ音楽であるポスト・ディスコの時代を経て、Hi-NRG、ハウス、テクノ等の電子楽器を前提とする新たなダンス・ミュージックを生み出して行った。2000年代にはデスクトップミュージック(DTM)が前提となり、世界でヒット曲を生み出しているエレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)[3]でも同様である。「ディスコ・ミュージシャンの一覧」も参照 生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは、1960年代以降のアメリカのニューヨークのゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクやソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。ディスコはゲイ男性のための発展場としての役割と、アンダーグラウンドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものに「パラダイス・ガレージ」「セイント」「フラミンゴ」「ギャラリー」などが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリーのディスコであり、女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場できた。これらはニューヨークでも最先端の流行発信地で、ファッショナブルで流行に敏感なゲイが集まる場所であった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのは「パラダイス・ガレージ」とそのメインDJであるラリー・レヴァンであった。1984年には「パラダイス・ガレージ」と人気を二分した「セイント」で、日本人として初めて中村直がレジデントとして迎えられた[4]。 こうした背景から、アメリカでは、ディスコ音楽は黒人とゲイのためのものと見られる傾向にあった。当時人気のあったゲイ・ディスコ・ミュージシャンには、シルヴェスターやヴィレッジ・ピープル[注 3]がいた。また、ドナ・サマー、ダイアナ・ロス、グロリア・ゲイナー、メルバ・ムーア、グレース・ジョーンズ、ロリータ・ハロウェイらは、ゲイを中心とした聴衆から「ディスコ・クイーン」の地位に祭り上げられた。しかし、粗製濫造された質の低いレコードや、飽きられたことによる流行の終焉、またエイズの流行によりゲイ音楽シーンが被害を受けたことなどにより、ゲイディスコという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉の後には、ハウスを中心としたクラブ音楽へと変わっていった。 アメリカでは、1970年代半ばから世界的なディスコ・ブームとなり、ニューヨークの「スタジオ54」や「ニューヨーク・ニューヨーク」などの巨大ディスコが人気となった。ディスコ音楽がラジオでさかんにオンエアされるようになると一般リスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組『ソウル・トレイン (Soul Train)』が人気となった。1977年のジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の影響で、ディスコ・ブームが先進国を中心に世界的に発生し、ディスコティックが増加した。ディスコには黒人やゲイだけでなく一般人が押し寄せるようになり、1975年から1979年ごろにはディスコ音楽がヒットチャートの上位に進出するようになった。 1970年代には、ただヒット曲を流すのではなく、DJが自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を踊らせるスタイル、2枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、クラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などが、ラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズらによって確立された。やがてラリー・レヴァンやフランソワ・ケヴォーキアン
アメリカのディスコ
アメリカから日本へ輸入されたディスコ文化は、本来の黒人音楽の要素は非常に薄まり、白人大衆向けに普及した音楽であった。 参考資料:[5] 日本のディスコ黎明期は1960年代後半だったが、初期のディスコはGSやロックが中心であり、ダンスもゴーゴーやモンキー・ダンスだった。1965年にオープンした「中川三郎ディスコテック」は新宿などに複数の店舗を持ち、GSのテンプターズらがライブ演奏を行った。ダンサーだった中川三郎は給料の安い若年層向けに、料金が安くラフな服装でも訪れやすいようにしてダンスを普及させた。 一般的には、1968年(昭和43年)に赤坂に開店した「ムゲン」[6](歌舞伎町の同業同名店とは営利無関係、1987年閉店)と赤坂の「ビブロス」がソウル/R&Bの聴けるディスコのルーツといわれている。ムゲンでは1970年代半ばから、コンファンク・シャンがハウスバンドとして2年ほど演奏していた。当時はエレキバンドが出す大音響の演奏に合わせて踊るゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画し、主に芸能人やモデル、富裕層や米兵を含めた外国人客を主な客層として一気に時代を先んじた存在になった。当時の「ムゲン」は、渋沢龍彦や三島由紀夫、三宅一生、加賀まりこ、沢田研二、安井かずみ、前野曜子、グッチ裕三など著名人で賑わっていたという。沢田研二や萩原健一も「ムゲン」に行ったことはあるが、回数は少ないとみられる。
日本のディスコ
1960年代