ディキシー_(歌)
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Dixie
和訳例:ディキシー
初版の表紙(1860年)

事実上の国歌の対象
アメリカ連合国
作詞ダン・エメット(英語版)
作曲ダン・エメット(1859)

試聴
1916年の録音[1] noicon
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「ディキシー」(英語: Dixie)はアメリカ合衆国南部を歌った曲で、1859年に書かれた。作者はオハイオ州出身でミンストレル・ショーの作曲家であるダン・エメット(英語版)とされるが、異説もある。

「ディキシー」はミンストレル・ショーから発して急速に米国全土で流行した。南北戦争中には「ボニー・ブルー・フラッグ」や「神よ南部を救いたまえ」と並んでアメリカ連合国の事実上の国歌のひとつであった。この頃により南北戦争と結びついた新しい歌詞が作られた。

曲名は「Dixie's Land」、「I Wish I Was in Dixie」などさまざまに呼ばれる。日本語では「ディクシー」とも書かれるが、本記事では「ディキシー」で統一する。
作曲の経緯と著作権ダン・エメットの写真。下部に「ディキシー!」の作者と説明されている。オハイオ州ノックス郡のベン&ルー・スノーデンがかつて所有していた。

通説ではオハイオ州出身のミンストレル・ショーの作曲家であるダニエル・エメットが1859年ごろに書いた曲とされる[2]。エメットは作曲の経緯について後年に何度か証言しているが、細部に食い違いが見られる。たとえば作曲にかかった時間について、ある時には「数分」、ある時には「ひと晩」、ある時には「数日」と語っている[3]。1872年のニューヨーク・クリッパーの記事は中でももっとも早い時期のもので、それによると彼がニューヨークのブライアントのミンストレル・ショー (Bryant's Minstrels) の作曲家として雇われて間もない日曜の夜、ジェリー・ブライアントから新しいウォークアラウンド(ミンストレルのダンス曲)が月曜までに必要だと言われ、アパートに籠って日曜の夜のうちに曲を書いたとしている[4]。ビラによれば1859年4月4日の月曜日にニューヨークのメカニクス・ホールで開かれたブライアントのショーで「ディキシーズ・ランド」が初演されている[5]

後年の証言はこれとはいろいろと異なっており、晩年の証言ではニューヨークに移る前にすでに作曲していたとさえ言っている。ワシントン・ポストの記事で作曲年を1843年としているのはこの説を支持している[4]

エメットは1860年6月21日にニューヨークで「ディキシー」を(「I Wish I Was in Dixie's Land」の題で)出版した。自筆原稿は残っていない。エメットが著作権登録を行なうのが遅れたため、それまでにこの曲が他のミンストレル・ショーやバラエティ・ショーの団体に広まり、歌曲集・新聞・片面刷りの印刷物などにこの曲が載せられたが、それらには「ジェリー・ブロッサム」「ディキシーJr.」など架空の作者名が載せられていた[6]。エメットの生前に起きたもっとも重大な異論は、作者を南部のウィリアム・ヘイズと主張するものだったが、異論の主張者が証拠を提出する前に死亡した[7]。エメットの没後4年にあたる1908年までに37人が曲の作者を自分であると主張した[8]
南北戦争とその後1859年4月4日にニューヨークのメカニクス・ホールで上演されたブライアント・ミンストレルズによる「ディキシー」初演のビラ

「ディキシー」は発表以来広く知られるようになり、ミンストレルのスタンダード・ナンバーになった。エイブラハム・リンカーンのお気に入りの曲でもあり、1860年アメリカ合衆国大統領選挙運動中に演奏された[5]。1860年にはロンドンでも上演され、1860年代末までにはイギリス水兵の歌のレパートリーになった[9]

「ディキシー」は1860年3月にニューオーリンズにもたらされてヒットした。「ディキシー」は北部の音楽であり、歌詞にも特に愛国的な点はなく、南部で受ける可能性は表面的にはないように見える。当時の南部の分離主義の盛り上がりがなければ、この曲は忘却されていたかもしれない[10]。コーラス部分の「In Dixie Land I'll took my stand / To lib an die in Dixie」という歌詞、および冒頭部分、そして南部の描写が共鳴を得た[11]

南部の他の地域にも急速に普及した。1860年末までに連邦離脱主義者はこの曲を自分たちの音楽として採用した。サウスカロライナ州チャールストンのセント・アレンドルー・ホールで1860年12月20日に行われた離脱のための各選挙の後にこの曲が演奏された[12]。1861年2月18日にはジェファーソン・デイヴィスアメリカ連合国大統領就任式においてこの曲がハーマン・フランク・アーノルドによってクイックステップに編曲されて演奏されたとき、一種の国歌として扱われていた[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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