ディエゴ・マラドーナ
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ディエゴ・マラドーナ
Diego Maradona

1986 FIFAワールドカップ優勝時
名前
本名ディエゴ・アルマンド・マラドーナ
Diego Armando Maradona
愛称Pelusa

Barrilete Cosmico
Pibe de Oro
D10S
ラテン文字Diego MARADONA
基本情報
国籍 アルゼンチン
生年月日 (1960-10-30) 1960年10月30日
出身地 ブエノスアイレス州 ラヌース
没年月日

2020年11月25日(2020-11-25) (60歳没)
身長165 cm
体重69 kg
選手情報
ポジションMF / FW
利き足左足
ユース
1968-1969 エストレージャ・ロハ
1970-1974 ロス・セボジータス
1975-1976 アルヘンティノス・ジュニアーズ
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1976-1982 アルヘンティノス・ジュニアーズ 166 (116)
1981-1982→ ボカ・ジュニアーズ(loan) 40 (28)
1982-1984 バルセロナ 36 (22)
1984-1991 ナポリ 188 (81)
1992-1993 セビージャ 26 (5)
1993-1994 ニューウェルズ 5 (0)
1995-1997 ボカ・ジュニアーズ 30 (7)
通算491 (259)
代表歴
1977-1979 アルゼンチン U-2024 (13)
1979-1994 アルゼンチン [1]91 (34)
監督歴
1994 マンディユー・デ・コリエンテス
1995 ラシン・クルブ
2008-2010 アルゼンチン
2011-2012 アル・ワスル
2013-2017 CDリエストラ(アシスタントコーチ)
2017-2018 アル・フジャイラ
2018-2019 ドラドス・デ・シナロア
2019-2020 ヒムナシア・ラ・プラタ[2][3]
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、アルゼンチンブエノスアイレス州ラヌース出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダーまたはフォワード。身長165cm、体重69 kg。
概要

1976年にアルゼンチン・リーグにおいて史上最年少でプロデビューを果たし、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献した立役者となる。アルゼンチン代表においても1977年に歴代最年少(16歳)で出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権を優勝、FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選出された。同大会の準々決勝イングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは、マラドーナを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。このような実績からペレと並んで史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている[4][5]

現役引退後は監督として複数のクラブを歴任、2008年にはアルゼンチン代表監督に就任。2010年大会では南米予選を突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、同大会終了後の2010年7月に解任された。2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した[6]

選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後も入退院を繰り返したが、引退から時間が経った現在でもマラドーナの信奉者は多くアルゼンチンではマラドーナのことを「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街にマラドーナを讃える祭壇が設けられているなど、高い人気を誇っている[7]
クラブ経歴
幼少期

マラドーナは1960年10月30日、ブエノスアイレス南部のラヌース (Lanus) に貧しい家庭の子として生まれた[8]。住んでいた掘立小屋にはぬいぐるみやゲームもなかったが[9]、ひとり立ちができるようになった3歳の時に叔父からサッカーボールをプレゼントされ、自宅近くにあるゴミ捨て場の近くでサッカーボールを蹴るようになった[9]

地元の小学校に入学してすぐに仲良くなった友人と6歳のころから毎日ボールをけって遊ぶようになったが[10]、9歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に、すでに同チームでプレーしていた友人がコーチに「自分より巧い友達」としてマラドーナの加入を推薦し[11][12]、練習でのトレーニングマッチで卓越した動きを見せてコーチを驚かせ[13]、その技術を認められて同チームに加入した[13][14]。セボリータスはマラドーナの加入後大差での連勝を続け、136試合とも151試合ともいわれる連続での無敗記録を作った[15]

幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが[16]、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けており[17][18]、現地の新聞で「将来有望な名手」として紹介された[18]。また、土曜日の人気娯楽番組への出演を依頼され、サッカーボールだけでなくオレンジや空き瓶でのリフティングを披露した[17]。13歳時にアルゼンチン政府主催で行われた公式の大会で準決勝進出を果たした際には、マラドーナは新聞で「ペレの弟」と紹介された[19]

1973年、12歳の時にはCAリーベル・プレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった[20][21][22]。少年時代の憧れの選手はCAインデペンディエンテリカルド・ボチーニだった[23]
プロデビュー期ユース時代
(1973年)

13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念することとなった[24]。1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし[25]、15歳の誕生日にはクラブから家族全員が住めるほどの大きさのアパートが提供された[26]。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった[27]

1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月でタジェレス・デ・コルドバ戦にて初出場[28]。この試合は0-1でタジェレスにリードを許している場面での後半に途中出場し、交代してすぐにゲーム全体の流れを変える動きを見せ、タジェレスの選手から執拗にマークを受けた[29]。試合はこのまま終了して敗れたものの、地元の新聞からも試合での動きを高く評価された[29]。同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた[30]

プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグにおいて翌1977年は49試合に出場して19得点、1978年は35試合に出場して26点を挙げ[31]、1979年に26得点、1980年に43得点を挙げて得点王を獲得[31]。1979?1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年?1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した[31]。アルヘンティノス時代は166試合に出場して116ゴールを挙げた[32]
ボカ・ジュニアーズボカ・ジュニアーズ時代(1981年)

1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日のスーペルクラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でCAリーベル・プレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった[33]

この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、マラドーナも20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した[34]


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