ディエゴ・ベラスケス
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この項目では、スペイン画家について説明しています。スペインのコンキスタドールについては「ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル」を、アメリカの俳優については「ディエゴ・ベラスケス (俳優)」をご覧ください。

ディエゴ・ベラスケス
Diego Velazquez
自画像
誕生日 (1599-06-06) 1599年6月6日
出生地 スペイン帝国セビーリャ
死没年1660年8月6日(1660-08-06)(61歳)
死没地 スペイン帝国マドリード
国籍 スペイン
運動・動向バロック
芸術分野絵画
代表作ラス・メニーナス, 1656年
鏡のヴィーナス, 1644年?1648年
ブレダの開城, 1634年?1635年
ほか多数
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ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez, 1599年6月6日(洗礼日) - 1660年8月6日)は、バロック期のスペイン画家エドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である[1]
生涯
修業時代

没落した貴族の家系とされてきたが、近年の研究では父方がコンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系である可能性が高いとされている(父方の祖父ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバはポルトガルからセビーリャに移住しているが、当時多くのコンベルソがポルトガルから移動し、シルバなどの名を名乗っていた)[2][3] 。スペイン南部の都市セビーリャに生まれ、11歳の頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。6年後の1617年、18歳のときに独立し、翌1618年には師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚する。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスも『東方三博士の礼拝』などの宗教的主題の作品、『修道女ヘロニマ・デ・ラ・フエンテ』などの肖像画とともに、この厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。1618年に制作された『卵を調理する老女』などがその代表作である。1622年には首都マドリードへと旅行した。
セビーリャ時代 (1617-1622年) の代表作

3人の音楽家』(1617-1618年) 絵画館 (ベルリン)

マルタとマリアの家のキリスト』(1618年) ナショナル・ギャラリー (ロンドン)

卵を調理する老女』(1618年) エジンバラスコットランド国立美術館

東方三博士の礼拝』(1619年) マドリードプラド美術館

修道女ヘロニマ・デ・ラ・フエンテ』(1620年) プラド美術館

セビーリャの水売り』(1620年頃) ロンドンアプスリー・ハウス

宮廷画家

1623年、マドリードに2回目の旅行に行く。このとき、スペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け (後に『オリバーレス伯公爵騎馬像』を制作)、国王フェリペ4世の肖像画を描いた。国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。

美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたという。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていた。

ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。

1628年には、スペイン領ネーデルラント総督のイサベル・クララ・エウヘニアから外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンスと出会い、親交を結んだ。この年から翌年にかけて、『バッカスの勝利』(プラド美術館) を描いている。

1629年、美術品収集や絵画の修業などのためにイタリアへの旅行が許される。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗することとなり、親交を結んだ。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在し、1631年にスペインへと戻った。この時、ローマで制作した『ウルカヌスの鍛冶場』(プラド美術館) と『ヨセフの衣を受けるヤコブ 』(エル・エスコリアル修道院) をスペインに持ち帰っている。また、イタリアでは『ヴィラ・メディチの庭園、ローマ』 (プラド美術館) を制作したと考えられている。

帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで『ブレダの開城』を制作。他にも1637年以後には『バリェーカスの少年』、1644年には『エル・プリーモ』や『セバスティアン・デ・モーラ』(すべてプラド美術館) など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していった。
1631-1649年の代表作

十字架上のキリスト』(1631-1632年頃) プラド美術館

ドン・フアン・マテオス』(1633年頃) アルテ・マイスター絵画館 (ドレスデン)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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