テーバイ
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この項目では、古代の都市国家について説明しています。現在の地名については「ティーヴァ」をご覧ください。
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度19分26秒 東経23度19分2秒 / 北緯38.32389度 東経23.31722度 / 38.32389; 23.31722テーバイが覇権を握っていた時期(紀元前371年-紀元前362年)の地図。黄色がテーバイとその同盟国。

テーバイ(古代ギリシア語: Θ?βαι[1])は、古代ギリシアにあった都市国家ポリス)のひとつ。現在の中央ギリシャ地方ヴィオティア県の県都ティーヴァにあたる。

ボイオーティア同盟の盟主となり、アテナイスパルタと覇権を争った最有力の都市国家のひとつであった。精強を謳われた「神聖隊」の活躍も知られている。

またギリシャ神話では「7つの門のテーバイ」として名高く、オイディプース伝説などの舞台となっている。

長音を略した「テバイ」や、「テーベ」と表記されることもある。
地理

テーバイは、ボイオーティアアッティカを分かつキサイロナス山脈の北麓、ボイオーティア平原の南端にあたる。
歴史
都市の勃興

テーバイはアイオリス人が建設したと考えられている。テーバイからはミケーネ文明期の遺跡が見つかっている。青銅器時代にはドーリア人の侵攻を受けたと考えられ、かれらによる征服の事実がこの都市をめぐる神話の背景になっていると考えられている。ボイオーティア地方の中心に位置し、また軍事的にも強力なテーバイは、自然にボイオーティア人の盟主としての地位を確立していった。
アテナイとの抗争とペルシャ戦争プラタイアの戦い(紀元前479年)

紀元前6世紀後半、テーバイ人たちははじめてアテナイ人たちと衝突を起こした。ボイオーティア側の小さな村落であるプラタイアが独立を維持するためにアテナイ人が支援したのが契機であり、紀元前506年にはアッティカへの侵攻が撃退されている。

紀元前480年アケメネス朝クセルクセス1世がギリシャに侵攻する(ペルシャ戦争)。テルモピュライの戦い(紀元前480年)においてテーバイ軍400人はギリシャ軍に参加し、スパルタレオニダス1世とともにテルモピュライで最後まで踏みとどまるものの、ペルシャへ投降。レオニダスらの「玉砕」と比較して「愛国心」がないと非難されるその姿勢は、しばしばアテナイとの険悪な関係で説明される。テーバイの指導的な貴族たちはペルシャ軍への参加を決定し、テーバイはペルシャ軍のギリシャ攻略拠点となった。

プラタイアの戦い(紀元前479年)において、テーバイ軍はペルシャ軍の一員として激しく戦うものの、戦いはギリシャ連合軍が勝利を収めた。テーバイはギリシャ連合軍によって攻略され、ボイオーティア同盟の盟主の座から引き下ろされるなどの懲罰が加えられた。スパルタはテーバイをデルポイ隣保同盟から除名しようとしたが、アテナイの仲裁によって免れている。
ペロポネソス戦争

紀元前460年、アテナイ(デロス同盟)とスパルタ(ペロポネソス同盟)との間に第一次ペロポネソス戦争(紀元前460年-紀元前445年)が勃発する。紀元前457年、スパルタは方針を転換し、中部ギリシャにおいてアテナイに対抗できる勢力としてボイオーティアにおけるテーバイの復権を認めた。アテナイはオイノフュタの戦い(紀元前457年)でボイオーティア同盟を破り、テーバイを除く全都市を占領してボイオーティアを支配下に置いたが、テーバイのカドメアの要塞はアテナイに対する抵抗の拠点として持ちこたえた。デルポイをめぐる第二次神聖戦争(紀元前449年-紀元前448年)の終息後、ボイオーティアの諸都市はアテナイに対して反旗を翻すようになった。コロネイアの戦い紀元前447年)でボイオーティアなどの連合軍はアテナイに勝利、アテナイはボイオーティアから撤退し、ボイオーティアの諸都市は独立を取り戻した。

紀元前431年(第二次)ペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)が勃発するが、テーバイはスパルタの忠実な同盟者としてアテナイと戦った。これに対してアテナイはプラタイアをはじめとする小規模な都市を支援してテーバイを苦しめた。紀元前427年、テーバイは因縁の深いプラタイアを占領し、破壊している。紀元前424年にはデリオンの戦い(英語版)で、テーバイをはじめとするボイオーティア軍はアテナイ軍を破り、テーバイの軍事的な実力が示されることとなった。
コリントス戦争

紀元前404年、ペロポネソス戦争はスパルタの勝利で終結し、アテナイには親スパルタの三十人政権が樹立された。テーバイの指導者たちは、スパルタが併合の意図を持っていたことを知り、スパルタとの同盟を破棄した。紀元前403年には、テーバイはアテナイの民主制復活をひそかに支援し、スパルタに対する均衡をとらせようとしている。反スパルタ勢力に対してアケメネス朝からの資金提供も行われたことも一つの要因となり、テーバイはコリントスとともに反スパルタ連合の核となっていった。紀元前395年、テーバイやコリントスなどの諸国はスパルタとの間に戦端を開く(コリントス戦争)。テーバイはハリアルトスの戦い(英語版)(紀元前395年)やコロネイアの戦い(紀元前394年)で軍事的な能力を示した。

紀元前387年アンタルキダスの和約が結ばれ、すべてのギリシアの都市の完全な自治が明記された。この和約はボイオーティアの諸都市のテーバイからの離反を招くものであり、テーバイにとっては破滅的なものであった。紀元前383年、スパルタは裏切りによって城砦を占拠し、テーバイの軍を削減した。
レウクトラの戦いとテーバイの覇権

紀元前379年ペロピダスエパメイノンダスが率いるテーバイ市民の決起が成功してスパルタ軍を追放し、テーバイはスパルタの支配から脱した。伝統的な寡頭政治の代わりに民主主義が導入された。

スパルタとの戦いにおいて、ペロピダスエパメイノンダスが率いるテーバイ軍は優れた戦果を挙げた。紀元前371年のレウクトラの戦いで、エパメイノンダス率いる劣勢のテーバイ軍がスパルタ軍を撃破したことで、テーバイの軍事的な栄光は頂点に達し、テーバイがスパルタに代わってギリシャの覇権を握ることとなった。エパメイノンダス率いるテーバイ軍はペロポネソスに侵攻し、スパルタ経済の基盤である奴隷を解放した。同様の遠征はテッサリアやマケドニアに対しても行われた。

しかし、テーバイの覇権は長く続かなかった。紀元前364年にはキュノスケファライの戦いでペロピダスが戦死。


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