テンプル騎士団
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この項目では、十字軍時代にヨーロッパ・中近東で活動した騎士修道会について説明しています。現代メキシコの麻薬カルテルについては「テンプル騎士団カルテル」をご覧ください。
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テンプル騎士団の紋章
一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。

テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(: Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。

十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。
概要

テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。
組織構造テンプル騎士団の旗

テンプル騎士団は正統な修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)であった。総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。

テンプル騎士団は以下の4つのグループから構成されていた。

騎士 - 重装備、貴族出身

従士 - 軽装備、平民出身

修道士 - 資産管理

司祭 - 霊的指導

通常、1人の騎士には10人ほどの従士がついていた。 さらに一部の修道士は資産管理業務を専門としていた。テンプル騎士団は十字軍従軍者の資産を預かる業務も行っていたが、あくまで主目的は戦闘にあった。

テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進を受けることで資産を増やしたが、その資産を用いて聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、武装した騎士を常駐させた。テンプル騎士団のユニフォームは白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけたもので、テンプル騎士団を描いた絵でもよく見られる。

騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ、秘密儀式が行われていた。入会式の全容が秘密とされたことが後に騎士団を異端として告発するにあたって利用された。しかし秘密儀式といっても、実際には通常の騎士団のような誓いや、修道会のような清貧・貞潔・従順の誓いを立てていたにすぎなかった。上級騎士たちは決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えていたとされる。このような戦士としての士気の高さ、熱心に行われた鍛錬と十分な装備などがあいまって中世最強の騎士団と呼ばれるほどになった。
歴史
創設と初期の活動アル=アクサー・モスク
テンプル騎士団初期の本部、エルサレムの神殿の丘にある。元の神殿の遺構の上にたてられたため、十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼んだ。「テンプル騎士団」の名はこの「神殿(temple)」から取られた

テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の成功にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(十字軍国家)は慢性的な兵力不足に直面した。この事に憂慮して聖地の守護を唱えたフランスの貴族、ユーグ・ド・パイヤン(英語版)のもとに9人の騎士たちが集まり、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスチノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国ボードゥアン2世は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。

ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。

テンプル騎士団は1147年第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅 Omne Datum Optium を出して、修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。

テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なものであった。特に1177年モンジザールの戦いサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世イングランドリチャード1世(獅子心王)とも共闘した。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとした。

しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちやほかの修道会からの批判の声が聞かれるようになった。それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は、商人や製造業者たちの敵意を受けるようになっていった。
財務機関としての発達

軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。第1回の十字軍は参加者自身が資金を集めていたが、全財産を売り払う者もいたために物価下落を招いたという非難があった。このために第2回以降は教会が遠征費の調達をすることになり、テンプル騎士団が資金の管理に関わるようになった。12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。危険がともなう現金輸送よりも便利であり、巡礼者から国王にいたるまで幅広く利用された[1]


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