テレーズ・カバリュス
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "テレーズ・カバリュス" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年3月)
テレーズ・カバリュス(1804)

テレーズ・カバリュス(: Therese Cabarrus, 1773年7月31日 - 1835年1月15日)は、銀行家の娘で、その美貌を武器にフランス総裁政府期には社交界の華であった女性である。

本名は旧姓で、ジャンヌ=マリー=イニャス=テレーズ・カバリュス(: Jeanne- Marie-Ignace-Therese Cabarrus、西: Juana Maria Ignazia Theresa Cabarrus)であるが、「テレザ・カバリュス(: Theresa Cabarrus)」という彼女本人が好んで用いた通称で有名。また結婚後の姓であるフォントネ侯爵夫人またはタリアン夫人とも呼ばれた。
生涯

1773年、マドリード近郊で銀行家・カバリュスとスペイン人の母親との間に生まれる。子供の頃から美人だった。16歳の時に金持ちの貴族ド・フォントネ侯爵と進んで結婚。宮廷生活を楽しむと同時に、その頃進歩的な貴族の間で流行していた「自由主義」に触れ、ラメット兄弟やラファイエットとも交流を深めた。1789年のフランス革命の勃発と同時に夫は亡命したが、テレーズは革命に興味を持ち、夫に従って亡命することを拒否して離別した。1793年、ボルドーに移り、そこからスペイン国境に向かい、父の援助で亡命しようとした。

ボルドーでは厄介者扱いされたため、積極的に革命の祭典で自由の女神に扮するなどして愛国者と名乗った。そのうち、派遣議員としてやってきたタリアンの目に触れた。テレーズにのぼせあがったタリアンは彼女に求められるがままにテレーズの友人である反革命容疑者を処刑リストから外した。

間もなく、このことがパリロベスピエールに知られ、タリアンは呼び戻される。その後を追ってテレーズもパリに行ったが、そのまま逮捕され、ラ・フォルス監獄に入れられた。ここで後のナポレオンの妻ジョゼフィーヌと知り合い、親友となった。死と隣り合わせで不安な日を送り、タリアンに早く何とか出所させてもらうように矢のような催促をするが、なかなか釈放されず、痺れを切らしたテレーズは1794年7月25日、タリアンに最後の手紙を送った。

この手紙を受け取ったタリアンは、ポール・バラスに誘われていたクーデターの敢行を決意し、7月27日、タリアンは国民公会に向かった。テルミドールのクーデターは成功し、7月28日、テレーズは監獄から釈放される。人々はテレーズを「テルミドールの聖母」と呼び、これが彼女の一生の称号となった。テレーズとタリアンはすぐに結婚して娘をもうける。シメイ城長男のジョセフ・リケ・ド・シメイ

しかし、1年足らずでタリアンの栄光は翳り、テレーズはバラスの愛人となる。1802年にはタリアンを見切って離婚した。だが、バラスは浪費癖のあるテレーズに困り果て、革命成金のウヴラールの元に厄介払いしたが、それも長続きしなかった。ナポレオンが最高権力を手にすると、ジョゼフィーヌの浮気癖はテレーズが原因と思い込んでいたために、彼女の社交界への出入りを差止めた。そのため1805年、カラマン伯爵(Francois Joseph de Riquet de Caraman-Chimay、のちのシメイ公、祖父はピエール=ポール・リケ)と再婚して、4人の子をもうけ、残りの30年を夫の領地シメイ(ベルギー)で、それまでと打って変わって静かに平穏に暮らした。晩年は「私の若い頃は小説みたいだった」と言っていたという。
ファッションリーダー

タリアン夫人としてまたバラスの愛人としてテレーズはファーストレディとなり、ファッションリーダーだった。彼女のサロンには権力者が集った。当時のファッションは、革命前のロココ風のウェストを緊縛する宮廷ファッションが消え去り、自然主義の影響を受けた開放的な衣装、古典主義つまりギリシャ・ローマ風に流れるような布の線を十分に活かして胸高に帯を結ぶ衣装が流行していた。その布もシースルーの薄布で、乳首を透けて見せるのがポイントだった。それにつば広の帽子をかぶり長いショールを肩にかけた。このスタイルの女性を「メルヴェイユーズ」(伊達女)と呼び、タリアン夫人はその普及者だった。

また、”La coiffure a la Titus”と呼ばれる、18世紀末から19世紀初頭の短い間に流行した、古代ローマの皇帝ティトゥスの髪型を真似た短髪を社交界の女性たちに広めたとして知られている。[1]
脚注[脚注の使い方]^ “Usurping Masculinity: The Gender Dynamics of the coiffure a la Titus in Revolutionary France”. 2023年11月4日閲覧。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef