テレンス・ヤング
Terence Young
本名Shaun Terence Young
生年月日 (1915-06-20) 1915年6月20日
没年月日 (1994-09-07) 1994年9月7日(79歳没)
出生地 中華民国 上海
死没地 フランス カンヌ
国籍 イギリス
職業映画監督
主な作品
『007』シリーズ
『暗くなるまで待って』
受賞
ゴールデンラズベリー賞
最低監督賞
1982年『インチョン!』
その他の賞
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ショーン・テレンス・ヤング(Shaun Terence Young、1915年6月20日 - 1994年9月7日)は、イギリスの映画監督。映画007シリーズの初期の監督として知られる。 英国警察署長の父のもと、1915年、上海市の共同租界に生まれる[1]。英国で学び、ケンブリッジ大学を出る。大学ではテニス・ラグビー・クリケットが得意だった。大学新聞に批評を書き、夏はブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ
来歴
ヤングは第二次世界大戦後期のマーケット・ガーデン作戦の際、イギリス軍の戦車部隊長を務めており、激戦地のアルンヘムで砲撃の指揮をとっていた。後に「もう少し左を狙っていたら(当時同地に住んでいたオードリー・ヘプバーンを撃ってしまって)、今頃はこの仕事についていないだろう」とよく冗談を言っていたという[2][3]。
ロンドンで脚本家、助監督を経て監督になり[4]、1953年の『赤いベレー』でハリウッドデビューを果たす。
1962年には007シリーズ第1作『ドクター・ノオ』をヒットさせ、『ロシアより愛をこめて』、『サンダーボール作戦』の3作を監督した。映画を作るにあたり、無名だったショーン・コネリーを行きつけの高級テーラーに連れて行き、スーツを日常的に着させるところから始めたことから、ジェームズ・ボンドのファッションはテレンス・ヤングの嗜好が少なからず反映されているとも言える[5]。『サンダーボール作戦』を製作後、「最終作を撮る時は戻ってくる」と言い残して去ったが、結局最後までカムバックすることはなかった。
1994年にフランス、カンヌの病院で[4]心不全により79歳で死去した[1]。
主な監督作品
赤いベレー - The Red Beret(1953)
今は死ぬ時でない - No Time To Die(1958) - 007映画の第25作『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ No Time To Die(2021)とは同名だが別作品。ただし、スタッフ・キャストにアルバート・ブロッコリやルチアナ・パルッツィなど007関係者多数。
007 ドクター・ノオ - Dr.No(1962)
007 ロシアより愛をこめて - From Russia with Love(1963)
007 サンダーボール作戦 - Thunderball(1965)
残虐の掟 - L'Avventuriero(1967)
暗くなるまで待って - Wait Untile Dark(1967)
うたかたの恋 - Mayerling(1968)
クリスマス・ツリー - The Christmas Tree(1969)
夜の訪問者 - Cold Sweat(1970)
レッド・サン - Red Sun(1971)
バラキ - Valachi(1972)
アマゾネス - The Amazones(1973)
クランスマン - The Klansman(1974)
華麗なる相続人 - Bloodline(1979)