テル・エル・アマルナ
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アマルナ
???????? al-‘am?rnah
エル・アマルナ
アケトアテンにあるアテンの小神殿
アマルナエジプトにおける位置
座標: 北緯27度39分42秒 東経30度54分20秒 / 北緯27.66167度 東経30.90556度 / 27.66167; 30.90556
国 エジプト
ミニヤー県
等時帯 EST (UTC+2)
 - 夏時間+3 (UTC)

アマルナまたはエル・アマルナ(アラビア語: ???????? al-‘am?rnah‎)は、ナイル川東岸、現在のエジプトのミニヤー県に位置する場所である。アル・アマルナ、テル・エル・アマルナとも呼ばれる(後述)。県都のミニヤーから南に58km、首都カイロからは南に312km、ルクソールからは北に402kmの位置にある[1]。アマルナの地には現在、いくつかの村がある。

アマルナには多数の古代エジプト考古遺跡がある。紀元前1353年ごろ、エジプト第18王朝後期のファラオアメンホテプ4世が新たな首都として建設したが、短期間で放棄された都市だった[2]。古代エジプトではアケトアテン (Akhetaten) と呼ばれていた。アケトアテンとは「アテン神の地平線」の意である[3]

アマルナ革命の間はシナイ半島以東の治安維持が難しくなった。ブルナ・ブリアシュがエジプトへ送った使節がカナン北部のアッコンで地元領主の略奪隊に襲われている。ブルナ・ブリアシュはエジプトに犯人の処刑と被害の弁償を訴えている。さもないと使者の往来が全く絶たれるとも書いた。

この場所は後のローマ帝国時代や初期のコプト正教会時代にも使われており、都市の南部の発掘ではそれらの時代の遺構が見つかっている[4]
目次

1 地名について

2 アケトアテン

2.1 遺跡の配置

2.1.1 北の都市

2.1.2 中央の都市

2.1.3 南の郊外

2.1.4 周辺部



3 アマルナ美術

4 再発見と発掘

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク

地名について

"Amarna" という地名は8世紀にリビア砂漠を去ってこのあたりのナイル川河岸に定住した遊牧民 Beni Amran に由来する。

「テル・エル・アマルナ」とも呼ばれるが、"Tel" はアラビア語で「遺丘」を意味する。
アケトアテン 北の王宮の遺構

アケトアテンが建設された場所にはほぼ何もなかった。アメンホテプ4世がアクエンアテンと名乗り、アテン神信仰のための新首都として建設した。建設は彼の治世5年目ごろ(紀元前1346年)に始まり、9年目(紀元前1341年)に完成したが、その2年前から首都として使われ始めた。建設を早めるため、泥レンガを多用して表面を磨いた建物がほとんどである。重要な建物は表面を地元産の石で覆っていた[5]

古代エジプトの都市で、これほど構成の配置がそのまま保存されている都市は珍しい。これは、アクエンアテンの死後間もなく放棄されたという事実が大きく影響している。アクエンアテンの死後も10年ほどは人々が住んでいたようで、ホルエムヘブに捧げられた神殿が見つかっていることから、少なくとも彼の治世初期にも住民がいたと見られている[6]。その後はローマ人がナイル川に沿って入ってくるまで放棄されていた[4]。しかし、その成立と放棄の事情が特殊であるため、アケトアテンを古代エジプトの都市の代表例としてよいのかという疑問がある。アケトアテンは急いで建設された都市であり、ナイル川東岸に沿って約13kmの領域にまたがっていた。対岸は都市に食料を供給するための耕作地とされた[3]。都市全体を14個の境界碑で囲んでおり、建設当時の都市の範囲がはっきりしている[3]

最古の日付が刻まれた境界碑 Boundary stelae K には、アクエンアテンの「治世5年目の8月13日 (Year 5, IV Peret, day 13)」とある[7](14個の境界碑の多くは侵食がひどく、碑文が読めない)。それがアクエンアテンによる都市建設の記録を保持している。碑文には、ファラオがこの地にアテンの神殿をいくつか建て、東の丘に自身と妻ネフェルティティと長女メリトアテンの墓を作り、自身が死んだときにアケトアテンに埋葬されることを望んだということが書かれている[8]。Boundary stelae K にはアケトアテンで催された祝賀行事について書かれた記述がある。

「陛下が琥珀金製の大きな戦車に登ると、その姿はさながらアテン神が地平線から昇ってきて大地を慈愛で満たすかのようだった。そして始まりの地、(アテンが)自らのために作りたもうたアケトアテンへと向かう道を進んだ。アテンのためにアケトアテンを建設しアテンの記念碑を建てたのは、その息子 Wa'enre (アクエンアテン)であり、父(アテン)に命じられてのことである。天も地も彼を注視し、全てが喜びで満たされた。[9]

碑文にはさらにアクエンアテンがアテン神に奉納をする様子が描かれている。境界碑の上の半円部に描かれているのはそのときの様子であり、アテンの放つ光線に照らされて王と王妃と長女が若返る力を得る様が描かれている[9] アマルナの境界碑 Boundary stela U の左にある彫像
遺跡の配置

ナイル川東岸に位置し、都市の遺跡は北から南に通る「王の道」、現在の 'Sikhet es-Sultan' に沿って存在する[10][11]。王宮は北部に集中しており、「北の都市 (North City)」と呼ばれている。中央部には行政機関や宗教施設があり、南部には住居が集中していた。
北の都市

北の都市には、王族が住んでいた「北の王宮 (Northern Palace)」がある。この北の王宮と中央の都市の間に比較的大きな住居が並んでいるが、王の道から遠くなるにつれて住居が小さく粗末になっている[11]
中央の都市

重要な儀式や行政を司る建物の大部分は中央の都市にある。アテン大神殿と小神殿があり、宗教上の中心となっていた。また、両神殿の間に王と王族の執務用の「大王宮」と「王の邸宅」があり、橋や傾斜路で相互に繋がれていた[12]。宮殿の裏手にファラオに仕える政庁があり、そこでアマルナ文書が発見された[13]。この区域は最初に完成したと見られており、少なくとも2段階に分けて建設された[10]
南の郊外 ネフェルティティの胸像(紀元前1345年)

都市の南部は「南の郊外 (Southern Suburbs)」と呼ばれている。大臣、将軍、アテン大祭司など有力な貴族の家が多くあった。また、彫刻家トトメスの工房もあり、1912年に有名な『ネフェルティティの胸像』がそこで見つかった[14]


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