テルトウ=フレーミング郡
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紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ブランデンブルク州
郡庁所在地:ルッケンヴァルデ(ドイツ語版)
緯度経度:北緯52度07分
東経13度28分
面積:2104.2 km2
人口:

166,890人(2017年12月31日現在)[1]
人口密度:79 人/km2
ナンバープレート:TF
自治体コード:12 0 72
郡の構成:16 市町村
郡庁舎の住所:Am Nutheflies 2
14943 Luckenwalde
公式ウェブサイト: ⇒www.teltow-flaeming.de
郡長:コルネリア・ヴェーラン(ドイツ語版) (DIE LINKE)
州内の位置

テルトウ=フレーミング郡 (ドイツ語: Landkreis Teltow-Flaming) は、ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の郡である。人口は約17万人である。
目次

1 地理

2 歴史

3 市町村

4 人口動態

4.1 現在の郡域の人口動態と予測


5 政治

5.1 郡長

5.2 郡議会

5.3 郡財政

5.4 紋章

5.5 旗

5.6 極右活動


6 経済

7 賞

8 人口構造

9 姉妹郡

10 ナンバープレート

11 外部リンク

12 脚注

地理

テルトウ=フレーミング郡の総面積は、2,092.1 km2である。領域は東西では61 km、南北では70 kmである。隣接する郡は、東部ではダーメ=シュプレーヴァルト郡、南部ではエルベ=エルスター郡、西部ではポツダム=ミッテルマルク郡である。また南西部ではザクセン=アンハルト州ヴィッテンベルク郡(ドイツ語版)と、北部ではベルリン州と接している。総面積46.6%が農業に利用されている。名称のとおり郡内には、テルトウ(ドイツ語版)丘陵とフレーミング(ドイツ語版)丘陵が位置する。トレビーン(ドイツ語版)から北の北部の大部分は、テルトウ丘陵が、南部のほとんどはフレーミング丘陵、特に低フレーミングが占めている。両丘陵を隔てるのはヌーテ原流谷(ドイツ語版)であり、郡中央部の比較的平坦な領域である。郡内には11の河川や水路が流れ、ヌーテ川(ドイツ語版)とフライハイツグラーベン (Freiheitsgraben) が含まれる。また運河は2、湖は23ある。最大の湖は、面積283ヘクタールのブランケン湖(ドイツ語版)である。ただしこれらの湖のほとんどは遊泳には適さない。また、複数の自然保護地区、景観保護地区が設置されている。自然保護地区の内、最小のものはルートヴィヒスフェルデ(ドイツ語版)にあるペヒプフール(ドイツ語版)であり、面積は11ヘクタールである。最大のものは、ハイデホーフ=ゴルムベルク(ドイツ語版)であり、面積は9,864ヘクタールである。
歴史

テルトウ=フレーミング郡は、1993年ブランデンブルク州郡改編(ドイツ語版)に伴い同年12月5日に設置された。それまでのユーターボーク郡(ドイツ語版)、ルッケンヴァルデ郡(ドイツ語版)、ツォッセン郡(ドイツ語版)を統合したものである。名称は地理名称から採られた。すなわち北部にあり、氷河期に形成されたテルトウ(ドイツ語版)、南部のニーデラー・フレーミング(低フレーミング)(ドイツ語版)である。郡庁はルッケンヴァルデ(ドイツ語版)に置かれた。

地域の歴史は長く、また変遷に富むものであり、多くの都市や村に見て取れる。この地域は民族大移動期以降スラヴ人が居住していたが、中世のドイツ東方植民の進展に伴い、エルベ川ザーレ川以西からの移住者が定住するようになった。移住者の中にはフラマン人 (Flamen) がいたとされ、地理名称のフレーミング (Flaming) との関連が指摘されている。本郡の領域は、当時は様々な勢力が角逐する場であった。アスカーニエン家ブランデンブルク辺境伯ヴェッティン家マイセン辺境伯、マクデブルク大司教(ドイツ語版)、また地方の小領主がこれに加わっていた。テルトウ台地を獲得し、支配を確立したのはアスカーニエン家であり、領域の統一について最も古い記録は1232年に遡る。ユーターボーク(ドイツ語版)とルッケンヴァルデ(ドイツ語版)周辺は当初はマクデブルクの所有となった。そしてツォッセン所領(ドイツ語版)は、ベーメン封土となり、ラウジッツの一部とされた。

また今日の本郡の領域では、1813年にグロースベーレンの戦い(ドイツ語版)(8月23日)とデネヴィッツの戦い(ドイツ語版)(9月6日)が行われた。ナポレオンのベルリン軍は、手痛い敗北を喫し、フランス軍マルク地方から放逐される結果となった。

1815年のウィーン会議の後、アムト・ユーターボーク(ドイツ語版)とアムト・ダーメ (Amt Dahme)、またバールート等族領主領(ドイツ語版)は、プロイセン王国ブランデンブルク州(ドイツ語版)に編入されることとなった。ルッケンヴァルデや他の領域を併せ、1816年にはユーターボーク=ルッケンヴァルデ郡(ドイツ語版)が設置された。郡庁はユーターボークに置かれ、ルッケンヴァルデと同様、180年ぶりに同じ主権の下に歩むことになった。1841年にはトレビーン(ドイツ語版)、ルッケンヴァルデ、ユーターボークが鉄道で結ばれた。こうして工業が発展するための有利な条件が整えられた。最も恩恵を受けたのは今日の郡庁所在都市であるルッケンヴァルデであり、この地域で最多の人口を持つ都市となった。

ベルリンには今日、ドイツ連邦共和国の首都が置かれているが、当時、都市が発展するにつれ、軍事施設、つまり実験場や演習場は周辺地域に設置されていった。1910年にはツォッセン(ドイツ語版)、ヴュンスドルフ(ドイツ語版)、ツェーレンスドルフ(ドイツ語版)にまたがる地域に演習場が設けられた。この地には後に地下壕マイバッハI及びII(ドイツ語版)が構築され、1939年から1945年までは陸軍最高司令部 (OKH) が作戦指導のために使用した。1953年から1994年まで、ヴュンスドルフには駐東独ソ連軍の本部が置かれていた。1920年の大ベルリン新設の際、当時のテルトウ郡(ドイツ語版)は、都市、農村、領地地区の大部分を首都ベルリンに譲らざるを得なかった。人口が稠密で強い経済の北部を失い、税収激減の憂き目にあった。

1920年代と1930年代にかけて、都市計画や建築の分野でいくつかの興味深い進展があった。これらには、ルッケンヴァルデの革新的な住宅地開発とバウハウス様式で建設された市立劇場、また1936年から1937年にかけて建設されたルートヴィヒスフェルデ(ドイツ語版)のダイムラー・ベンツ航空機エンジン工場が数えられる。1950年代以降、ルートヴィヒスフェルデは東ドイツの車両製造(特にトラック IFA W50(ドイツ語版)) の代名詞となっている。ルートヴィヒスフェルデが都市となったのは1965年と比較的最近のことであるが、今日では郡内最大の人口を抱える。1952年 に、以前に比べ小規模な3つの郡が、ユーターボーク、ルッケンヴァルデ、ツォッセンにそれぞれ郡庁を置き設置された。旧テルトウ郡の一部は、ケーニヒス・ヴスターハウゼン郡(ドイツ語版)、ポツダム郡(ドイツ語版)となり、ダーメ/マルク(ドイツ語版)と周辺地域は1993年までルッカウ郡(ドイツ語版)の一部であった。1993年にテルトウ=フレーミング郡が編成されて以降、人口は常に増加傾向にある。今日、人口は約16.7万人であり、人口密度では南部に比べ北部が圧倒的に高い状態である[1]
市町村

現在、郡内には7都市を含む16の自治体がある。13の都市及び自治体はアムトに所属していない。以下に本郡に属する都市及び自治体を示す。カッコ内は2017年12月31日における人口である。「テルトウ=フレーミング郡の地名一覧(ドイツ語版)」も参照


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