テリー・ライリー
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テリー・ライリー
Terry Riley

基本情報
出生名Terrence Mitchell Riley
生誕 (1935-06-24) 1935年6月24日(88歳)
出身地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州コルファックス
学歴 アメリカ合衆国 カリフォルニア大学バークレー校
ジャンル現代音楽ミニマル・ミュージック、前衛音楽、実験音楽
職業作曲家、ミュージシャン
公式サイト ⇒http://terryriley.net/

テリー・ライリー(Terry Riley、1935年6月24日 - )は、アメリカ合衆国出身の作曲家である。スティーヴ・ライヒフィリップ・グラスらと並ぶミニマル・ミュージックの代表的な作曲家の一人[1]。2020年から日本在住。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
来歴

アメリカ合衆国カリフォルニア州コルファックス生まれで、シャスタ・カレッジ、サンフランシスコ州立大学サンフランシスコ音楽院で学んだ。その後、カリフォルニア大学バークレー校に入学、セイモア・シフリンと共に作曲法を学び、修士の学位を得た。しかし、彼に最も大きな影響を与えた教師はパンディット・プラン・ナートであった。プラン・ナートはインド古典声楽の名人で、ラ・モンテ・ヤングマリアン・ザジーラも彼の生徒であった。ライリーはパンディットの課程の間に何度もインドを訪問し、師が演奏する際、タブラ、タンブーラ、及び声による伴奏に携わった。1960年代を通じて、彼はヨーロッパにも度々旅行した。そこではピアノ・バーで日々の糧を得ながら、音楽的影響も受けた。彼の有名曲は長さの異なるモードセリーを用いた即興演奏に基づいており、その演奏は「In C(英語版)」、「Clapping Music」(1972年)、「Keyboard Studies」で聴くことができる。「In C」 (1964年) は最も知られた曲で、ミニマル音楽を一気に有名にした[2]。1968年には、やはり代表曲のア・レインボウ・イン・カーヴド・エア を発表している。ライリーは、1971年からはミルズ・カレッジにてインド古典音楽の教鞭をとることとなった。

1960年代にはまた、有名な「徹夜コンサート (All-Night Concert)」を行った。そこでライリーは古い「バラストの中に真空掃除機のモータで風を送り込むような」リードオルガンテープレコーダーによる遅延装置付きのサクソフォーンを用い、日の入りから日の出まで即興演奏を披露した。何時間も演奏し続けた彼がついに休憩を必要とした際、夜中じゅう回しっぱなしにしていたテープレコーダーのテープをループさせ、サクソフォーン演奏の断片を繰り返し再生した。この種のコンサートは何年も続き、観客は寝袋ハンモック持参で家族全員を連れてくるようになった。

ライリーは長年にわたりクロノス・クァルテットとの関係を保ったが、その始まりはミルズ・カレッジで創始者のデイヴィッド・ハリントンと出会った時であり、それ以来、アンサンブルのために13の弦楽四重奏曲を作曲した。最初の管弦楽曲「Jade Palace」を作曲したのは1991年のことであり、その後、同方面の作品が続いた。現在ではインドのラーガ歌唱及びピアノ独奏でも実演と教育を行っている。

2020年以降の新型コロナウイルスの世界的流行の影響で、ライリーは日本に滞在することになった。きっかけは、佐渡島のイベント「さどの島銀河芸術祭」だった。ライブストリーミングチャンネルのDOMMUNEが、さどの島銀河芸術祭でライリーのコンサートを企画し、ライリーは視察で2020年2月に来日した。当時はダイヤモンド・プリンセス号クラスターが発生しており、来日のリスクが懸念された。ライリーはDOMMUNE主催の宇川直宏への手紙で「もしウイルスに感染したとしても、それは私のカルマなので心配はいらない」と書いた。佐渡島に滞在した際、ライリーは鼓童鬼太鼓に感動したと述べている。しかし、来日後にアメリカで新型コロナウイルス感染者が増加したため、ライリーは日本での滞在を選んだ。日本での生活について、「85歳にして人生の新たな章が始まるとは想像もしていませんでしたが、私の仕事や人生観全般において、最も活力に満ち、最も刺激的な時期の一つとなっています」とコメントをしている[3]。現在は山梨県北杜市に在住[4]

さどの島銀河芸術祭は、2020年8月8日(土)から10月11日(日)に開催され、ライリーも9月22日にコンサートを行った[5]。ライリーは北沢浮遊選鉱場跡を会場に選び、運営側はコンサートを予約制として、来場者はPCR検査の陰性結果が必要となる日本初のコンサートとなった。当日はライブ配信はなく、後日にDOMMUNEで期間限定のアーカイブが配信された。ライリーはアーティストビザを取得し、2021年の夏に予定されているさどの島銀河芸術祭のコンサートの準備を進めている[3]2022年には久石譲とのコンサートも発表されたが、久石譲の体調不良により直前でキャンセルとなった。同氏とは、2023年10月31日と11月1日の二日間、待望の共演が予定されている。

山梨県北杜市に引っ越してから毎月神奈川県鎌倉市で弟子の宮本沙羅[6]と共に少人数制のKIRANA流派ラーガ教室を開催し、参加者と気軽な形で交流している[7][8]

2023年7月20日には国立音楽大学の講堂大ホールで『In C』の作曲公開講座を行った。内容としては、国立音楽大学に在籍する学生による演奏とテリー・ライリーによる指導を公開形式で行った[9]

2023年10月4日には、2020年初春来日直後のまだ日本移住を決める前に山梨県小淵沢録音した新作アルバムである「Terry Riley STANDARD(S)AND -Kobuchizawa Sessions #1」をリリースした[10][11]

2023年10月7日には、「埼玉国際芸術祭2023」のオープニングとしてコンサートを行った。

2023年10月13日と14日の二日間、重要文化財であり、通常は一般の立ち入りが制限されている京都 東本願寺の能楽堂で、イベント「AMBIENT KYOTO」のために特別公演を行う。

ライリー初期の試みにはカールハインツ・シュトックハウゼンの影響があるが、ラ・モンテ・ヤングと出会って以降、音楽の方向性を変えた。1955年から1956年にかけて、ライリーはヤングのシアター・オブ・エターナル・ミュージックに加わった。ライリーはヤングを「これまで会った中で最もフリークな奴」といっている。ヤングの発想こそが、ミニマリズムの心臓部であると言うのだ。だが、ミニマリズムにおけるライリーの影響力を挙げる音楽家も多い。この新しいスタイルを初めて用いたのは、1960年の弦楽四重奏曲においてであった。そのすぐ後に作曲された弦楽三重奏曲では短いフレーズを繰り返す技法を初めて彼は会得し、それがミニマリズムのスタイルとなったのである。

ミニマル音楽の演奏者としては、スティーヴ・ライヒジョン・ギブソンポーリン・オリヴェロス、モートン・サボトニックが挙げられる。


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