テリー・ファンク
NWA世界ヘビー級王者時代(1976年)
プロフィール
リングネームテリー・ファンク
"テリブル" テリー・ファンク
チェーンソー・チャーリー
本名テレンス・ディー・ファンク[1]
ニックネームテキサス・ブロンコ
テキサスの荒馬
リビング・レジェンド
身長188cm
体重118kg(全盛時)
誕生日 (1944-06-30) 1944年6月30日
死亡日 (2023-08-23) 2023年8月23日(79歳没)
出身地 アメリカ合衆国
インディアナ州
レイク郡ハモンド
スポーツ歴レスリング
アメリカンフットボール
トレーナードリー・ファンク・シニア
ドリー・ファンク・ジュニア
デビュー1965年12月9日
引退2017年
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テリー・ファンク(Terry Funk、本名:Terrence Dee Funk[1]、1944年6月30日 - 2023年8月23日[2])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州ハモンド出身、テキサス州アマリロ育ち。
第51代NWA世界ヘビー級王者。実兄のドリー・ファンク・ジュニアとのタッグチーム「ザ・ファンクス」でも活躍し、日本でも人気を博した。日本では「テキサス・ブロンコ」「テキサスの荒馬」[3]などの異名を持つ。 プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共にレスリングの英才教育を受けながら育つ。ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活動後、1965年12月9日、スプートニク・モンローを相手にプロレスラーとしてデビュー[4]。父がプロモートしていたテキサス州アマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)にてキャリアを積んだ。 1966年10月30日、ファンク・ジュニアと組んでフリッツ・フォン・エリック&ワルドー・フォン・エリックを破り、アマリロ版のNWA世界タッグ王座を獲得[5]。シングルのフラッグシップ・タイトルだったNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座には、1970年5月7日に初戴冠[6]。以降、ブル・ラモス、パク・ソン、ミスター・レスリング、サイクロン・ネグロ、カン・フー・リー、バック・ロブレイ、J・J・ディロン、キラー・カール・コックスらを抗争相手に、1975年4月にかけて同王座を通算12回獲得した[6]。 1970年7月、日本プロレスに初来日[7]。来日第2戦となる7月28日の横浜文化体育館大会では、アントニオ猪木とのシングルマッチが行われた[8]。2度目の来日時の1971年12月7日、ドリーとのファンク兄弟でジャイアント馬場&猪木のBI砲を破り、インターナショナル・タッグ王座を獲得[9]。1972年10月にはブルーノ・サンマルチノやフレッド・ブラッシーらと共に、全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加[10]。以降、全日本プロレスのブッカー兼看板外国人選手となって活躍した(後述)。 アメリカではアマリロ地区を主戦場としつつ、1971年8月30日、父シニアとのタッグでニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初出場、アル・コステロ&ドン・ケントのファビュラス・カンガルーズと対戦した[11]。1972年7月1日の再出場時には、同じくシニアとのコンビでキング・カーティス・イヤウケア&クレージー・ルーク・グラハムと対戦している[12]。 1973年2月10日、ミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムにおいて、ジョニー・バレンタインからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取[13]。1975年12月10日にはフロリダ州マイアミにて、ジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった[14]。以降、1976年1月1日には後に流血の大抗争を展開することになるアブドーラ・ザ・ブッチャー、1月6日にはビル・ロビンソン、3月30日にはアンドレ・ザ・ジャイアントを相手に王座を防衛[15]。日本では6月11日、蔵前国技館でジャンボ鶴田の挑戦を退ける[15]。その後も各地で防衛戦を続けたが[15][16]、1977年2月6日、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座から陥落した[14]。
来歴
NWA - WWF