テュロスのポルピュリオスPorphire Sophiste16世紀フランス、彫版
生誕234年
テュロス
死没305年
ローマ
時代古代哲学
地域西洋哲学
学派ネオプラトニズム
影響を受けた人物
プロティノス, 中期プラトニズム, プラトン, アリストテレス
影響を与えた人物
ボエティウス, スコラ学 とアラビア逍遥学派 (「エイサゴーゲー」を通して), 後期ネオプラトニズム
テンプレートを表示
テュロスのポルピュリオス(古代ギリシア語: Πορφ?ριο?、234年 - 305年)は、ネオプラトニズムの哲学者。テュロス出身[1]。彼は師プロティノスの唯一の著作『エンネアデス』を編纂・発表した。彼は自身の著作も多く残していてテーマも多岐に渡っている[2]。彼の『エイサゴーゲー』は論理と哲学の手引きであり[3]、そのラテン語訳は中世を通じて論理学の標準的な教科書となった[4]。さらに、いくつかの彼の著作を通じて、特に『託宣からの哲学』、『反キリスト教論』で、彼は多数の初期キリスト教徒との論争に携わっていて[5]、また、彼の『ユークリッド原論』に対する注釈はアレクサンドリアのパッポスに典拠として利用されている[6]。 ポルピュリオスの両親はフェニキア人で、彼はテュロスで産まれて「マルクス(王)」と名付けられた[7]。彼はアテナイでカッシオス・ロンギノス
伝記的情報
カルキスのイアンブリコスは古代のネオプラトニズムの著作でポルピュリオスの弟子として言及されているが、おそらくポルピュリオスの次の世代の主要な人物であることを意味しているにすぎないだろう。ポルピュリオスとイアンブリコスはテウルギー(呪術)の問題で公然と意見を異にしていた。ポルピュリオスは後年、7歳の子供を抱えた寡婦で熱狂的な哲学徒のマルセラと結婚した。それ以上のことはほとんど知られておらず、彼が死んだ日もわかっていない。
『手引き(エイサゴーゲー)』イブン・ルシュド(1126年 ? 1198年)とポルピュリオス(234年 ? 305年)の想像上の対話。 Monfredo de Monte Imperiali Liber de herbis, 14世紀[9]
ポルピュリオスは哲学的業績で最も知られている。ネオプラトニズムの基本的な文献である『理解の学習の手引き(Sententiae Ad Intelligibilia Ducentes)』の著作をおけば、彼は、しばしばアリストテレスの『範疇論
』の注釈だとそのタイトルから思われている非常に短い著作「範疇の手引き(Introductio in Praedicamenta)」によって評価されている[10]。しかしながら、バルネス(2003年)によれば、『範疇の手引き』の正しい題名は「手引き(ε?σαγωγ?)」であって、この本は特に「範疇」ではなく一般に『オルガノン』全体に対する手引きであり、実際には命題、定義、証明の理論を内容とするという。この手引きでは物体に与る性質がどのように分類されるかが論じられ、実体という哲学的概念が「類」、「種」、「種差」、「固有性」、「付帯性」の五つに分けられる。ポルピュリオスの最も影響力の強い哲学的功績は、『範疇への手引き』でアリストテレスの論理学をネオプラトニズムと合体させたこと、特に、範疇という概念を実体的に理解したこと(後の哲学で言う普遍)である。ボエティウスによる『エイサゴーゲー』のラテン語訳は中世ヨーロッパの学校・大学で標準的な教科書となり、それらの学校・大学で中世の論理学や普遍論争が哲学的・神学的に進展することとなった。エイサゴーゲーのうちで極めて重要な「ポルピュリオスの樹(Arbor porphyriana)」は彼の論理学における実体の分類を図示したものである。今日に至るまで、分類学は生物の分類においてポルピュリオスの樹の恩恵を受けている(系統樹、分岐学を参照)。
エイサゴーゲーはイブヌル・ムカッファによって、当時存在したシリア語版からアラビア語へ翻訳された。アラビア語化された題名「イサーグージー(????????)」の下にイスラーム圏において長い間論理学の手引きとなる標準的な教科書として扱われ、神学、哲学、文法学、法哲学に影響を与えた。この著作の翻案や縮図の他にも、論理学に関する独立した著作がムスリムの哲学者によって多く書かれ、しばしば「イサーグージー」という題名が付けられた。ポルピュリオスの「付帯性」に関する議論を端緒として、「付帯性」と「固有性」の適用に関する長きにわたる論争が起こった。[11] ポルピュリオスはキリスト教に反対して異教を擁護したことでも知られる。彼の伝統的な宗教擁護論である『託宣からの哲学』はディオクレティアヌスやガレリウスによるキリスト教迫害以前に書かれていて、彼らに迫害の根拠を提供することとなった:「どうして彼らを容赦する価値があると考えられようか?彼らは以前はギリシャ人やバルバロイのみならず、皇帝、立法者、哲学者、全ての心ある人が神だと考えてきた者から離反したのだ。それだけでなく、不信心や無神論を選ぶことで、人間同士で好きあってきたのだ[12]。どんな責め苦を受ければ彼らは彼らの言う父のことから逃げ出すだろうか?」[13] 迫害されていた時期に書かれたルキウス・カエキルス・フィルミアヌス・ラクタンティウス 彼の15巻に及ぶ『反キリスト教論(Adversus Christianos)』は断片のみが残っていて、論駁の対象として引用の形で提示される[14][15]。その中で、彼は「神々はキリストは敬虔であったと宣言したが、キリスト教徒は混乱した、悪性の宗派である」と言った事で有名だとして引用される。これに対する反論文がカエサレアのエウセビオス、ラオディケアのアポッリナリス
『託宣からの哲学(De Philosophia ex Oraculis Haurienda)』
『反キリスト教論(Adversus Christianos)』