テュルク系
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「テュルク」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「テュルク (曖昧さ回避)」をご覧ください。
世界のテュルク系民族の分布。濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国。薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域。テュルク系民族の分布。

テュルク系民族(テュルクけいみんぞく、 英語: Turkic peoplesまたはTurks、ロシア語: Тюрки、トルコ語: Turk halklar?)とは、チュルク語族の言語を使用する民族集団である[1]ユーラシア大陸の中央部を斜めに貫く、東シベリアからトルコ共和国にまで及ぶ乾燥地域を中心に[2]シベリア中央アジアおよび西アジア東欧などに広く分布する[1]。トルコ系諸民族、テュルク系諸族などとも[1]
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出典検索?: "テュルク系民族" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年9月)

英語では、狭義のテュルク / トルコと言うべき一民族をTurkishと呼び、広義のテュルク / トルコであるテュルク系諸民族全体をTurkicと呼んで区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別がある。

これにならい、日本語でも狭義のトルコに「トルコ」、広義のトルコに「テュルク」をあてて区別する用法があり、ここでもこれにならう。

同じく漢字を使用する台湾、中国など中国語圏では、狭義のトルコを「土耳其」(トルコ)、広義のトルコを「突厥」(とっけつ)と呼んでいる。

歴史学者の森安孝夫は、近年の日本の歴史学界において「テュルク」「チュルク」という表記がよく見られるとしながらも「トルコ民族」という表記をしたうえで、その定義を「唐代から現代にいたる歴史的・言語的状況を勘案して、方言差はあっても非常に近似しているトルコ系の言語を話していたに違いないと思われる突厥鉄勒、回?、葛邏禄、抜悉蜜、沙陀族などを一括りにした呼称」としている[3]

人種的には東部でモンゴロイド、西部でコーカソイドと東西で大きく異なるが[4]、人種に関係なくテュルク諸語を母語とする民族は一括してテュルク系民族と定義される。
歴史
起源

テュルク系民族の原郷についての定説がないが、ウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力である[5]モンゴル系民族と近接していた。人種的には同じくモンゴロイドと考えられている(プロト・テュルク(トルコ語版))[5][6]唐代まではほとんどが黒髪・直毛・黒目だった。

しかし唐代の終わり頃東ウイグル可汗国が崩壊しテュルク系民族がモンゴリアアルタイ地方から移動して天山山脈からタリム盆地全体を支配した。その結果、先住のコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族は何世代か後にはテュルク化し、テュルク系言語の話者となった[4]

ただし、言語上、エスニシティ上の関連性について、確たる証拠となるような記録が十分残されているとは言い難い[7]言語学者の仮説によれば、前3000?前500年ごろにはテュルク祖語が話されていたというが、直接的な証拠は何も残されていない[7]

現代のテュルク族は匈奴フン族が自分たちの先祖だと考えている(ただし学説は確立していない)[8]
丁零(ていれい)詳細は「丁零」を参照

「丁零」或いは「丁令」と記される民族は匈奴と同時代にモンゴル高原の北方、バイカル湖あたりからカザフステップに居住していた遊牧民であり、これも「テュルク」の転写と考えられている[9][10]

丁零は匈奴が強盛となれば服属し、匈奴が衰えを見せれば離反を繰り返していた。やがて匈奴が南北に分裂してモンゴル高原の支配権を失うと、東の鮮卑がモンゴル高原に侵攻して高原の支配権を握ったが、これに対しても丁零はその趨勢に応じて叛服を繰り返していた。

五胡十六国時代、鮮卑の衰退後はモンゴル高原に進出し、一部の丁零人は中国に移住して?魏を建てた。

[11][12][13]
高車(こうしゃ)詳細は「高車」を参照

モンゴル高原に進出した丁零人は南北朝時代に中国人(拓跋氏政権)から「高車」と呼ばれるようになる。

これは彼らが移動に使った車両の車輪が高大であったためとされる[14]。初めはモンゴル高原をめぐって拓跋部代国北魏と争っていたが、次第に台頭してきた柔然が強大になったため、それに従属するようになった。487年、高車副伏羅部の阿伏至羅は柔然の支配から脱し、独立を果たす(阿伏至羅国)。

阿伏至羅国は柔然やエフタルと争ったが、6世紀に柔然に敗れて滅亡した。

[15][16][12][17]
突厥(とっけつ)・鉄勒(てつろく)7世紀の東西突厥。Western Gokturk Khaganate=西突厥、Eastern Gokturk Khaganate=東突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝詳細は「突厥」を参照

中央ユーラシア東部の覇者であった柔然可汗国はその鍛鉄奴隷であった「突厥」によって滅ぼされる(555年)。突厥は柔然の旧領をも凌ぐ領土を支配し、中央ユーラシアをほぼ支配下においた。

そのため東ローマ帝国の史料[18]にも「テュルク」として記され、その存在が東西の歴史に記されることとなる。

また、突厥は自らの言語(テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記しているので[19]古代テュルク語がいかなるものであったかを知ることができる。

突厥は582年に東西に分裂し、8世紀には両突厥が滅亡した。

[20][21]詳細は「鉄勒」を参照

一方で突厥と同時代に突厥以外のテュルク系民族は「鉄勒」と記され、中央ユーラシア各地に分布しており、中国史書からは「最多の民族」と記された。鉄勒は突厥可汗国の重要な構成民族であったが、突厥が衰退すれば独立し、突厥が盛り返せば服属するということを繰り返していた。

やがて鉄勒は九姓(トクズ・オグズ)と呼ばれ、その中から回?(ウイグル)が台頭し、葛邏禄(カルルク)、抜悉蜜(バシュミル)といったテュルク系民族とともに東突厥第二可汗国を滅ぼした。

[22][20][23]
突厥の滅亡後

中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。

モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回?(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。

その後のウイグルは甘州ウイグル王国天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。[24][25][26]

中央アジアではカルルク、突騎施(テュルギシュ)、キメク、オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀サーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。

カスピ海以西ではブルガールハザールペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。

11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。

[27][28]
テュルクのイスラーム化

テュルク系国家で最も早くイスラームを受容したのはカラハン朝であるが、オグズから分かれたセルジューク家率いる一派も早くからイスラームに改宗し、サーマーン朝の庇護を受けた。

彼らはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズ)と呼ばれ、中央アジア各地で略奪をはたらき、土地を荒廃させていったが、セルジューク家のトゥグリル・ベグによって統率されるようになると、1040年ガズナ朝を潰滅させ、ホラーサーンの支配権を握る。

1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、アッバース朝カリフから正式にスルターンの称号を授与されるとスンナ派の擁護者としての地位を確立する。

このセルジューク朝が中央アジアから西アジアアナトリア半島にいたる広大な領土を支配したために、テュルク系ムスリムがこれらの地域に広く分布することとなった。

また、イスラーム世界において奴隷としてのテュルク(マムルーク)は重要な存在であり、イスラーム勢力が聖戦(ジハード)によって得たテュルク人捕虜は戦闘力に優れているということでサーマーン朝などで重宝され、時にはマムルーク自身の王朝(ホラズム・シャー朝、ガズナ朝、マムルーク朝奴隷王朝など)が各地に建てられることもあった。

こうした中で「テュルク・イスラーム文化」というものが開花し、数々のイスラーム書籍がテュルク語によって書かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界におけるテュルク語の位置はアラビア語ペルシア語に次ぐものとなり、テュルク人はその主要民族となった。

[29]
西域(トルファン、タリム盆地、ジュンガル盆地)のテュルク化

840年にウイグル可汗国が崩壊すると、その一部は天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とし、天山ウイグル王国を形成した。天山ウイグル王国はタリム盆地トルファン盆地、ジュンガル盆地の東半分を占領し、マニ教仏教、景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰した。


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