テュアナのアポロニオス
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アポロニオスが描かれた4世紀ごろのメダル(コントルニエイト(英語版))[1]17世紀ごろの銅版画

テュアナのアポロニオス(ティアナのアポロニウス[2]、アポッローニオス[3]とも、古希: ?πολλ?νιο? ? Τυανε??, Apoll?nios ho Tyaneus, 1世紀ごろ[4])は、ローマ帝国期のテュアナ出身の新ピタゴラス派哲学者宗教家[5]

ピロストラトス著『テュアナのアポロニオス伝[6]』によれば、ピタゴラスを信奉し、西はヒスパニア、東はインドまで弟子と遍歴し、疫病退散、悪魔祓い死者蘇生瞬間移動千里眼復活などの奇跡を行った。

後世、ペテン師とも聖者とも評された[7]。特にナザレのイエスと類似点が多いことから、キリスト教において議論の的になり[5]、またイスラム世界オカルティズム文学にも受容された。
資料ユリア・ドムナ。『テュアナのアポロニオス伝』の執筆をピロストラトスに依頼した。

詳細な伝記として、3世紀ピロストラトス『テュアナのアポロニオス伝』(古希: Τ? ?? τ?ν Τυαν?α ?πολλ?νιον) が伝わる。しかし本書は、現実離れした内容や脚色を含むため、信憑性に乏しい[8][注釈 1]。ピロストラトスは本書を、皇后ユリア・ドムナの依頼により執筆した[10][11]。依頼理由は定かでないが、推測では、神職の娘であるユリアがアポロニオスに親近感を抱き、ペテン師や魔術師でなく聖者として再評価を望んだため[10]、またはイエス・キリストに対抗させようとしたため[12][注釈 2]、とされる。ピロストラトスは原資料として、ユリア所蔵のアポロニオスの直弟子ダミス(英語版)の書字板[8]や、各地に伝わるアポロニオス伝説[13]を参照した。

『テュアナのアポロニオス伝』以外の資料としては、後述のルキアノスらの言及、『スーダ』の記事、碑文などの考古学資料[1]がある。
生涯テュアナ(現トルコニーデ県

生没年は不詳で、生年は1世紀初頭ごろ、一説にはイエス・キリストと同年とされる[7]。没年はネルウァ帝在位時(96年-98年)とされる[7]

カッパドキアの要衝テュアナに、富裕層の次男として生まれた[14]。ピロストラトスが伝える出生譚では、妊娠中の母親の夢にホメロスの姿をした海神プロテウスが現れ、「お前は私を産む」と告知した[15]。その後ある日、母親が花畑でうたた寝していると、突如白鳥たちが歌い踊り、晴天の空に雷鳴が轟き、アポロニオスが生まれた[15]

少年時代から記憶術アッティカ方言に優れるなど、神童ぶりを示した。14歳の時、タルソスアイガイで諸派の哲学を学び、15歳の時から新ピタゴラス主義に傾倒し始めた[14][注釈 3]。以降、飲酒・屠畜・性愛を避け、髪を伸ばし放題にし、アイガイのアスクレピオス神殿で神殿医学に従事した[16]。20歳の時、テュアナに戻り財産の大半を親族に譲った後、5年間一切言葉を発さずにキリキアパンフィリアを遍歴し、筆談で諍いを仲裁するなどした[16]。この沈黙の行を終えた後、ダミス(英語版)を弟子にしたり、アンティオキアなど各地の神殿を巡礼したり、アラブ人の密儀共同体に参加したり、鳥の言葉(英語版)を理解できるようになったりした[17]

40歳代ごろ[18]、かつてピタゴラスもそうしたように、見聞を広めるため東方遍歴に出た。道中カフカス山脈では、鎖に繋がれたプロメテウスを見た[8]バビロンでは、川底トンネルを通り、現地の王(パルティアヴァルダネス1世[18])やマゴイと歓談した[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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