テメキュラ_(カリフォルニア州)
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テメキュラ
City of Temecula

テメキュラの市庁舎
標語 : "古い伝統、新しい機会"
位置

リバーサイド郡内の位置(上)
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度30分12秒 西経117度7分25秒 / 北緯33.50333度 西経117.12361度 / 33.50333; -117.12361
歴史
市制1989年12月11日
行政
アメリカ合衆国
  カリフォルニア州
 リバーサイド郡
 市テメキュラ
City of Temecula
市長ジェフリー・コマーチェロ
地理
面積 
  市域68.1 km2
    陸上  68.0 km2
    水面  0.1 km2
      水面面積比率    0.11%
標高358 m
人口
人口(2020年現在)
  市域110,003人
  備考[1]
その他
等時帯太平洋標準時 (UTC-8)
夏時間太平洋夏時間 (UTC-7)
公式ウェブサイト : ⇒City of Temecula

テメキュラ(: Temecula)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州リバーサイド郡にある都市。人口は11万0003人(2020年)。1989年12月11日に市制が布かれた若い自治体である。

テメキュラの北西にはマリエータ市、南はペチャンガ・インディアン居留地に接しており、その他の市境はリバーサイド郡の未編入領域である。市内を南北に州間高速道路15号線(テメキュラバレー・フリーウェイ)と同215号線が走り、東西と北東方向にカリフォルニア州道79号線(北東方向はウィンチェスター道路、南東方向はテメキュラ・パークウェイ)が走っている。

隣接するマリエータ市と共にインランド・エンパイア地域の南西端になっている。サンディエゴ市とロサンゼルス市およびオレンジ郡からほぼ等距離にある。また近くにアメリカ海兵隊のキャンプ・ペンドルトン、同じくミラマー航空基地、アメリカ空軍のマーチ空軍予備役基地およびアメリカ海軍のサンディゴ基地があるので、市内には軍人の家庭が多い。
歴史
1800年以前

テメキュラとなった地域には、テメキュラ族インディアンが数百年にわたって住んでおり、その後にスペイン宣教師団が初めて接触して、サンルイス・レイ・デ・フランシア伝道所(フランス聖王ルイの伝道所)に因み、彼ら民族をルイセーニョと呼んだ[2]。ルイセーニョ族インディアンのペチャンガ・バンドは彼らの先祖がテメキュラの地域に1万年以上にわたって住んでいたと信じている。ペチャンガの神話では地球上での生命はテメキュラ・バレーで始まったとされている。彼らはここを「イクスヴァ・テメーク (Exva Temeeku) 」すなわち空の父と地の母が結合した場所 (Tuukumit'pi Tamaayowit) と呼んでいる。テメキュラ族インディアン (Temeekuyam) は「テメークンガ (Temeekunga)」すなわち「太陽の場所」に住んだ[3]

テメキュラという名前の解釈として別に広まっているのは、「霧を通して輝く太陽」[4]、あるいは「霧を太陽が突き破る場所」というものである。テメキュラ市のウェブサイトに拠れば、「テメキュラは当初のインディアンの名前を保持していることではカリフォルニア州で唯一の都市」とされている。

最初に文書に残されたスペイン人の訪問は1797年10月に、フランシスコ会パードレ、フアン・ノベルト・デ・サンティアゴ牧師とペドロ・リサルデ船長が来た時だった[5]。サンティアゴ神父が日記を付けており、「テメキュラ...インディアンの集落」を見たことを記していた[6]。この旅にはエルシノーレ湖地域やテメキュラ・バレーも含まれていた。
1800年-1900年

1798年、スペインの宣教師団がサンルイス・レイ・デ・フランシア伝道所を設立し、その地域に住んでいたインディアンを「サンルイセーニョ」略して「ルイセーニョ」と呼んだ[7]。1820年代にサンアントニオ・デ・パラ伝道所が建設された。

1844年にメキシコによる土地特許によってテメキュラの地域はフェリックス・バルデスに特許されたランチョ・テメキュラと、その東にビンセンテ・モラガに特許されたランチョ・パウバとなった。テメキュラの集落を含む渓谷の南端で、肥沃で水の便もよかった土地のランチョ・リトル・テメキュラは、1845年には以前の伝道で改宗し土地特許を与えられることになっていたルイセーニョ族の数少ない者の一人、パブロ・アピスに与えられた。4つ目の土地特許ランチョ・サンタローザはテメキュラの西の丘陵部にあり、1846年にフアン・モレノに与えられた。

それに続く時代に起こった米墨戦争ではルイセーニョ族とカフイラ族が土地での戦闘に巻き込まれた。1847年1月、パウマ虐殺と呼ばれる事件が起こり、ルイセーニョ族が彼らの馬数頭を盗んでいたメキシコ兵11人を捕まえた。カリフォルニーオがロサンゼルスの将軍に率いられ軍事的報復行動を起こした。メキシコ兵とカフイラ族インディアンの連合軍が33人ないし100人(多くの推計では33人ないし40人)のルイセーニョ族を殺した。この事件はテメキュラ虐殺と呼ばれるようになった。

米墨戦争が終わるとアメリカ人開拓者がこの地域にも入って来るようになり、インディアンとの摩擦が増加した。1852年にテメキュラのマギーの店で和平条約が調印されたが、アメリカ合衆国議会によって批准されることはなかった[8]。さらにルイセーニョ族は、メキシコの法律で認められ耕し定着してきた伝道所の土地に留まることができると考えられていたので、近年に出された土地特許に異議申し立てを行った。彼らはランチョ・リトル・テメキュラに対するパブロ・アピスの領有主張に異議申し立てを行い、土地委員会に持ち込んだ。1853年11月15日、委員会はルイセーニョ族の主張を斥けた。1856年に彼らが控訴すると、裁判所はパブロ・アピスの相続人に有利な裁定を下した(パブロ・アピスは1853年後半か1854年初期に死んでいた)。テメキュラ集落のルイセーニョ族は1872年までテメキュラ・クリークの南岸に留まっていたが、その後アピスの特許土地はルイス・ウルフが取得した。ルイセーニョ族は1875年に強制退去させられた。

1857年にワーナー牧場からコルトンに向う経路で駅馬車の運行が始まり、これがテメキュラ・バレーを通った。それから1年のうちに、バターフィールド・オーバーランド・メイル社がミズーリ州セントルイスからサンフランシスコまでの郵便馬車運行を始め、テメキュラのマギーの店で停車した[9]。1859年4月22日、南カリフォルニアで最初の内陸部郵便局がテメキュラのマギーの店に設立された。これはサンフランシスコにできた郵便局に続いて、州内では2番目のものだった。テメキュラ郵便局はそれに続く時代に移転された。その現在の場所は7番目と8番目の場所になっている。南北戦争によってバターフィールド・オーバーランドの駅馬車が止められ、地域の輸送の問題が起こった[10]

1862年、テメキュラの商人で郵便局長だったルイス・ウルフが、混血で半分の血はインディアンだったラモナ・プレイスと結婚した。作家のヘレン・ハント・ジャクソンは1882年に、また1883年に再度ルイスとラモナのウルフ夫妻と時を過ごした。ウルフの店がジャクソンの1884年に書いた小説『ラモナ』の中で架空の「ハートセルの店」にヒントを与えた[11]

1882年、アメリカ合衆国はテメキュラ中心街から8マイル (13 km) ほどの地に広さ約4,000エーカー (16 km2) のペチャンガ・インディアン居留地を設定した。1882年にはまた、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道の子会社カリフォルニア・サザン鉄道がナショナルシティからテメキュラまでの部分の建設を完了させた。1883年、この線はサンバーナーディーノ市まで延伸された。1880年代後半、一連の洪水が線路を流し、渓谷を通っていた線路の部分は最終的に放棄された。古いテメキュラ駅は納屋として使われ、その後解体された。

1890年代花崗岩の石切り場が操業を始め、テメキュラの花崗岩はフェンスや繋ぎ柱、縁石、裁判所の階段および建物のブロックに形作られた。20世紀への変わり目には穀物と牛の出荷場としてテメキュラは重要な地位を獲得した。


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