テムル・ハン(????? ??? t?m?r kh?n、? - 1412年)は、バトゥ家断絶後のジョチ・ウルスのハン。トカ・テムル系ノムカン王家の出で、先代のボラト・ハンの弟にあたる。
マングト部のエディゲによって推戴された傀儡ハンの一人。 テムルはジョチの十三男トカ・テムルの末裔で、トカ・テムルの孫のノムカンを始祖とする「ノムカン家」の出身であった[1]。ノムカン家のテムル・ベクはオロス・ハンの没後にオルダ・ウルスでハンに即位しており、テムル・ベクの子のテムル・クトルクの子がテムルとなる[2]。 テムル・ベクはトクタミシュ・ハンに敗れて亡くなり、トクタミシュはジョチ・ウルスの再統一を達成するも、南方のティムールと対立して没落した[3]。トクタミシュの没落後に台頭してきたのがマングト部のエディゲで、エディゲはテムル・クトルク/シャディ・ベク/ボラトらを擁立し、バトゥ・ウルスの大部分を支配した[4]。 ボラトが息子を残さず急逝した後に擁立されたのがその弟のテムルで、ハーフェズ・アブルーの『諸史精髄』によるとテムル・ハンはヒジュラ暦813年(1410年-1411年)に即位したという[5]。しかし、テムルはエディゲによって実権を奪われている現状を快く思わず、ヒジュラ暦814年初め(1411年)にエディゲを攻撃し、エディゲはホラズム地方に逃れざるをえなくなった[2]。 しかし、エディゲの後ろ盾がなくなると今度はトクタミシュの遺児のジャラールッディーンが勢力を盛り返し、1412年にジャラールッディーンの攻撃によってテムル・ハンは殺された[2]。こうして、ジャラールッディーンによって4代ぶりにトクタミシュ家が王位を奪還することになったが、エディゲもすぐに勢力を復活させて新たにチェキレをハンに推戴した[2]。 先代
概要
トカ・テムル系ノムカン王家
ジョチ(Jo?i >朮赤/zhuchi,???? ???/j?ch? kh?n)
トカ・テムル(Toqa temur >???? ?????/t?q? t?m?r)
キン・テムル(Kin temur >??? ?????/k?n t?m?r)
アバイ(Abai >????/ab?y)
ノムカン(Nomuqan >??????/n?muq?n)
クトルク・テムル(Qutluq temur >???? ?????/qutluq t?m?r)
テムル・ベク・ハン(Temur beg qan >????? ??? ???/t?m?r b?k kh?n)
テムル・クトルク・ハン(Temur qutluq qan >????? ???? ???/t?m?r qutluq kh?n)
ボラト・ハン(Bolad qan >?????/b?l?d)
テムル・ハン(Temur qan >????? ???/t?m?r kh?n)
クチュク・ムハンマド(Ku?uk mu?ammad qan >????? ????/k?ch?k mu?ammad)
マフムード・ハン(Ma?m?d qan >????? ???/ma?m?d kh?n)⇒アストラハン・ハン国
アフマド・ハン(A?mad qan >???? ???/a?mad kh?n)⇒大オルダ
クトル・ベク(Qutlu beg >????? ???/q?tl? b?k)
シャディ・ベク・ハン(?adi beg qan >???? ??? ???/sh?d? b?k kh?n)
脚注^ 赤坂2005,87-90頁
^ a b c d 赤坂2005,300頁
^ 川口2002,84-85頁
^ 坂井2007,42-44頁
^ 川口2002,86頁
参考文献
赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房、2005年2月)
赤坂恒明「ペルシア語・チャガタイ語諸史料に見えるモンゴル王統系譜とロシア」『北西ユーラシアの歴史空間』(北海道大学出版会、2016年3月)
川口琢司「キプチャク草原とロシア」『岩波講座世界歴史11』(岩波書店、1997年)
川口琢司「ジョチ・ウルスにおけるコンクラト部族」『ポストモンゴル期におけるアジア諸帝国に関する総合的研究』(2002年)
坂井弘紀「ノガイ・オルダの創始者エディゲの生涯」『和光大学表現学部紀要』(第8号、2007年)
ボラト・ハンジョチ・ウルスのハン
1410年 - 1412年次代
ジャラールッディーン