テムズの戦い
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テムズの戦い
Battle of the Thames
米英戦争インディアン戦争

1813年10月5日
場所オンタリオ州チャタム近く
結果アメリカ軍の決定的勝利

衝突した勢力
イギリス軍
インディアン同盟アメリカ軍
指揮官
ヘンリー・プロクター
テカムセ ウィリアム・ハリソン
戦力
正規兵800名
インディアン500名[1]民兵2,380名
騎兵1,000名
正規兵120名
インディアン260名[1]
被害者数
戦死45名
負傷後捕虜35名
降伏442名戦死15名
負傷30名
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テムズの戦い(テムズのたたかい、: Battle of the Thames)、またはモラビアタウンの戦い(モラビアタウンのたたかい、英: Battle of Moraviantown)は、米英戦争中の1813年10月5日アッパー・カナダチャタム近くで米英がインディアンの領土を奪い合ったインディアン戦争

米英両陣営がそれぞれ同盟した、インディアン部族による代理戦争でもある。
概要

イギリス軍アメリカ軍が、北西部領土の支配権を巡って起こした戦闘である。英軍、米軍それぞれに同盟するインディアンが戦闘に加わったが、アメリカ軍の決定的勝利となり、勇猛で鳴らしイギリス軍と同盟していたショーニー族インディアンの英雄テカムセが戦死した。結果的にイギリス軍とインディアンの同盟も消滅した。

1813年9月、オリバー・ハザード・ペリー指揮するアメリカ海軍エリー湖の湖上戦で決定的勝利を奪った。イギリス軍のヘンリー・プロクター将軍は補給線を失うことをおそれ、テカムセの助言も容れずに、マルデン砦から撤退を始めた。アメリカ軍のウィリアム・ハリソン将軍は、プロクターを追ってアッパー・カナダに入った。テカムセは何度もプロクターを説得してアメリカ軍と向き合わせようとした。最後はプロクターが折れて、テムズ川のモラビアタウンでハリソンと対峙することになった。
戦力

ウィリアム・ハリソンの軍隊は少なくとも3,500名の歩兵と騎兵がいた。その中にはダンカン・マッカーサールイス・カス将軍の下にそれぞれ正規歩兵部隊がいた。リチャード・メンター・ジョンソン大佐がケンタッキー騎兵を率いた。ケンタッキー民兵の5部隊は、アメリカ独立戦争の英雄で63歳のアイザック・シェルビーが率いた。ジョンソン指揮下の志願兵の多くはレーズン川の出身であり、「レーズンを忘れるな」をスローガンに徴兵されていた。

プロクター軍には約800名の正規兵とテカムセら約500名のインディアンがいた。イギリスの兵士は徐々に士気を失いつつあり、プロクターがなかなか踏みとどまって戦おうとしなかったので、テカムセたちインディアン戦士は辛抱しきれなくなっていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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