テマ制
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この項目では、東ローマ帝国の軍事・行政と一体化した区画について説明しています。広義的な軍区制や軍管区そのものについては「軍管区」をご覧ください。
バシレイオス2世治下のテマ制(1025年)。「アルメニア」のように、現在の地域と呼称が一致しないテマがある。

テマ制(テマせい、ギリシャ語: θ?ματα、Themata)とは、東ローマ帝国中期の地方行政制度。日本語では「軍区制」とも呼ばれる。なお、「テマ」という言葉は元々ギリシャ語で「軍団」を表す言葉であるため、ここで述べるテマ制が開始される前から存在するが、この記事とは異なった意味で使用されていることに注意する必要がある。また、中世ギリシャ語では「セマ」となる。
概説スキュリツェス年代記』に描かれたアラブ軍によるアモリオン攻囲(838年)。城塞でテマ・アナトリコイの兵士が防戦に当たる。

テマ制とは、所属する兵士に農地を与えて平時は自由農民として農耕に従事させ、その収入により武器や装備を自弁させるものとし、有事には兵士として召集して国土の防衛に当たるという兵農一致の制度である[1][2]。兵士はストラティオティスと呼ばれた。外敵の侵攻にさらされた地域において、平時は常駐する軍隊の膨大な糧食需要を兵士が農民として自活することで補うことができ[3][2]、有事には兵士たちは自分の土地を守るために戦うこととなり、士気は高く、有効な戦力となった[4][2]。また、陸軍のみならず海軍にもテマは形成された[5][6]

本来軍隊の指揮官だったテマの長官には、諸説あるものの遅くとも8世紀後期以降には民政権限も統合され、軍事・民政双方の権限を掌握する地方長官となった。

テマの兵力は、時代によって変化があり、またテマの規模や人口による相違も大きいが、10世紀の帝国東部の陸軍テマに関する記録によると最大のもので15,000名、小さいもので4,000名とされている[7]

7世紀頃に現れる初期のテマは野戦機動軍の軍団等を前身とすると考えられており[8][9]、テマの長官の称号は「将軍」を意味する「ストラテーゴス」であった[9]。ただ、皇帝直属軍団を前身とするテマ・オプシキオンの長官は、その前歴の名残で「コメス」であり[9]、隣接するテマ・オプティマトンの長官は「ドメスティコス」であった[1]。その後テマの分割や領土拡大などにより新たに発足したテマの長官は、いずれも「ストラテーゴス」を称した[1][10][注 1]

テマの増強の過程では、兵力源となる人口の増加策として移民・入植政策も推進され、小アジア・アルメニア出身者のトラキア地方への入植、スラヴ諸族投降者の小アジア北西部への入植などが行われた[13]

かつてはテマ制はヘラクレイオス王朝統治下で計画的に導入されたとする見方が多かったが、現在では各地を防衛していた軍団が臨時に取った措置を帝国政府が追認したものではないかとする見解もある。いずれにせよ、未だに国際ビザンツ学会でも論争中であり、テマの起源については戦乱の時代で記録が少ないこともあって諸説あるのが現状である。10世紀の人々にとってもテマ制の起源は謎であったらしく、皇帝コンスタンティノス7世は『テマの起源について』という書を記し、解説を試みている[14]
テマ制は計画的に導入されたとする説

初期の東ローマ帝国の地方制度はローマ帝政末期の属州制度を継承していた。即ち、中央から任命された州長官が行政を担当し、国境線の防衛は軍司令官が担当するという、軍事と行政の分担制度である。[15]

しかし、ヘラクレイオスの時代ともなると、ユスティニアヌス1世以来の相次ぐ戦役により国家財政は悪化し、サーサーン朝ペルシア帝国は辛うじて退けたものの、新たに勃興してきたイスラム帝国やバルカン半島のブルガール人の侵攻により毎年のように首都コンスタンティノポリスが脅かされるようになり、従来の中央集権型の地方制度では敵国の同時侵攻に対応しきれなくなっていた。そこで異民族の侵入に素早く対応できるようにするために、現地の軍司令官が行政権を兼任するテマ(軍管区制)が導入された。[16][17]

バルカン半島方面では自由農民の他にも勇猛さで知られたスラヴ人なども任用され、これも戦闘力の増強に一役買ったという。このストラティオティスは屯田兵でもあり、これらが各地に入植することで拠点を構築し、税収増や国防力強化へと繋がっていく[18]。初期には土地の委譲が法律によって禁止されていたため、テマ単位での大規模な屯田を行うなど帝国によって厳重に統制されていた。特にコンスタンス2世の時代にスラヴ人を小アジアに入植させた政策は有効だったらしく、彼の時代にはウマイヤ朝を創始してイスラム帝国を継承したムアーウィヤも東ローマの小アジアにおける防衛線は突破することが出来なかった。


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