テディー・ライリー
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テディー・ライリー
Teddy Riley
テディー・ライリー(2014年)
基本情報
出生名Edward Theodore Riley
生誕 (1967-10-08) 1967年10月8日(56歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ハーレム
ジャンルニュージャックスウィングヒップホップR&B
職業シンガーソングライターキーボード奏者音楽プロデューサー
担当楽器ボーカルキーボードトークボックス
活動期間1980年 -
レーベルインタースコープ、Uptown、MCA、Lil Man、DreamWorks
共同作業者ガイブラックストリート、QDT、ビッグ・ダディ・ケイン、ジーン・グリフィン、レクスン・エフェクト、クール・モー・ディー

テディー・ライリー(英語名:Teddy Riley、1967年10月8日 - )は、アメリカ合衆国R&B作曲家ミュージシャン音楽プロデューサー、ミキサー。

1980年代後半に、ニュージャックスウィングと呼ばれる独自のサウンドを確立させ、ソウル・チャートでのヒットの他、一部の曲はポップ・チャートにクロスオーバー・ヒットさせた。ゴーゴー、R&B、ファンクヒップホップなど、複数のスタイルをまとめスウィング・ビートにのせた音楽は当時斬新だった。また他のアーティストに対するソングライター・プロデューサーとしての活動だけでなく、ガイなどのように自身がミュージシャンとして全面に出る場合もあった。他の作曲家が作曲した曲のリミックスも数多く手がける。ザップロジャー・トラウトマン同様にトークボックスを巧みに使いこなす。
来歴

ニューヨーク州ハーレム生まれ[1]。本名はエドワード・シオドア・ライリー(Edward Theodore Riley)。

10代からミュージシャン/プロデューサーとして活動しており、12歳の時には既にキッズ・アット・ワークというグループに参加してデビューを果たしていた。その後、ラップクール・モー・ディーをプロデュースした。テディが有名になったのは1987年発表のキース・スウェット「アイ・ウォント・ハー」が翌年にヒットしたことによる[2]1988年にはボビー・ブラウンのセカンド・アルバムに参加(クレジットはジーン・グリフィン名義)。この大ヒットにより、一躍人気プロデューサーの仲間入りを果たす。自らもアーロン・ホール、ティミー・ギャトリング(後にダミオン・ホールと交代)と共にガイというグループを結成し、高い人気を獲得した他、ビッグ・ダディ・ケイン、ジョニー・ケンプ、デイジャ、スターポイント、ナヨービ、アブストラック、ヘヴィ・D & ザ・ボーイズボーイ・ジョージジェームス・イングラムらの制作も行い、花形プロデューサーとなった。なおロブ・ベイスは、自身の代表曲にテディーは関与していないと証言している[3]

テディーが確立した斬新なスタイルのサウンドは「ニュージャックスウィング(NJS)」と呼ばれ、一大ブームを巻き起こし、後のミュージシャンやカイル・ウエスト、ザン、テイミー・ガトリング、アルトン・ウィーキー・スチュアートらのプロデューサーに影響を与えた。ニュージャックスウィングのブームは1988年ごろから、最も長くとらえれば1993年ごろまで続いた。彼は1980年代後半には、ジャム&ルイス、LA & ベイビーフェイスらと共に、トップ・プロデューサーとして多くの楽曲を世に送りだした。この時期には、実質マネージャーであるジーン・グリフィンとコンビで「G.R.Production」として活動していたが、やがて制作の主導権や、ギャラの配分を巡って対立。喧嘩別れのような形でコンビを解消することになった。その後、テディーは活動の拠点をニューヨークからヴァージニアに移し、自らのスタジオを設立した。

1992年マイケル・ジャクソンなどのプロデュースを行い「リメンバー・ザ・タイム」をヒットさせた。やがてNJSブームは1994年ごろには退潮傾向となり、ガイとしての活動も停滞してしまう。その後、新グループのブラックストリートを結成し、アルバムを発表[4]。ガイのサウンドからはやや変化させ、スウィング・ビートだけでなく、コーラスワークも活用したアルバム制作で、新たな人気を獲得した。1996年のドクター・ドレーとのシングル「ノー・ディギティ」は、全米ナンバー1の大ヒットとなった。ブラックストリートは1999年までに3枚のアルバムを発表し、グループとしてグラミー賞を獲得したが、サード・アルバム発表後にメンバー間の対立が表面化して活動停止を余儀なくされる。

1999年、ガイとして活動を再開、2000年にアルバムを発表するが、これは商業的には振るわず、ガイは再び活動休止状態に陥る。2000年にはメラニーBのアルバムをプロデュースした[5]2003年にはブラックストリートのメンバーと和解して4枚目のアルバムを発表するが、これも大ヒットには至らずに終わる。この間も、プロデューサーとしては旺盛な活動を続けており、数多くのアーティストのアルバムやシングルを手がけている。

2006年、自らのグループ、ガイとブラックストリートを共に復活させ、ニュー・エディションSWVなどと共に「New Jack Reunion」ツアーを全米で敢行した。同時期に、ガイとブラックストリート両方のニュー・アルバムをレコーディング中と一部で伝えられたが、この時期には発表されていない。同年、アトランタに新スタジオを設立し、新たな活動拠点とした。

2008年落雷による火事で、ヴァージニア州のスタジオは焼失してしまった。

2009年4月25日、アトランタで開催されたDJイベント「The Core DJ Retreat」のパネルディスカッションにおいて、ガイとブラックストリートのメンバーを伴って出席、両グループの復活とニュー・アルバムの制作を発表した。[6]
プロデュースした主な音楽家



ガイ(曲「グルーブ・ミー」ほか)

キース・スウェット((曲「アイ・ウォント・ハー」)

ビッグ・ダディ・ケイン((曲「アイ・ゲット・ザ・ジョブ・ダン」)

クール・モー・ディー(曲「アイ・ゴー・トゥ・ワーク」)

ジョニー・ケンプ[7]

ボビー・ブラウン(曲「マイ・プリロガティブ」)

ブラックストリート(曲「ベイビー・ビー・マイン」)

Wrecks-N-Effect(曲「ニュージャックスウィング」)

ヘヴィ・D & ザ・ボーイズ(曲「サムバディ・フォー・ミー」)

Abstrac'(曲「ライト&ハイプ」)

ジョディ・ワトリー

安室奈美恵[8]

少女時代[9]


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