テッド・ライオンズ
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テッド・ライオンズ
Ted Lyons
1930年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ルイジアナ州レイクチャールズ
生年月日1900年12月28日
没年月日 (1986-07-25) 1986年7月25日(85歳没)
身長
体重5' 11" =約180.3 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション投手
プロ入り1923年
初出場1923年7月2日
最終出場1946年5月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


ベイラー大学

シカゴ・ホワイトソックス (1923 - 1946)

監督・コーチ歴


シカゴ・ホワイトソックス (1946-1948)

デトロイト・タイガース (1949-1952)

ブルックリン・ドジャース (1954)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1955年
得票率86.45%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

セオドア・アマール・ライオンズ(Theodore Amar "Ted" Lyons, 1900年12月28日 - 1986年7月25日)は、1920 - 1940年代に活躍したアメリカ合衆国ルイジアナ州レイクチャールズ出身のプロ野球選手投手)。右投両打。ニックネームは"Sunday Teddy"(サンデー・テディ)。
経歴

1923年7月にホワイトソックスに入団。翌年から先発ローテーションの一角を担う。ライオンズはいわゆる打たせて取るタイプの投手で、全てのキャリアを通じてシーズンの奪三振数が80を超えたことが一度もなかったが、3年目の1925年には21勝、1927年には22勝を挙げて最多勝投手に2度輝いている。また1926年の8月21日にはノーヒットノーランを達成、その時の試合時間はわずか67分だった。

その後1931年に4勝と成績が落ち込んだ以外は毎年コンスタントに2桁勝利を挙げる安定した活躍を見せていた。1932年には、全日本大学野球連盟の招きで、モー・バーグレフティ・オドールとともに来日、東京六大学野球連盟に属する各大学で野球を教えた[1]。30代後半にさしかかる1935年頃から、登板の回数は徐々に減っていく。1939年、当時ホワイトソックスの監督だったジミー・ダイクスは、38歳になっていたライオンズを、日曜日のデーゲームごとに登板させるようにした。「サンデー・テディ」のニックネームはここから来たものである。この日曜日ごとの登板策は功を奏し、ライオンズは38歳から41歳までの4シーズン全てで2桁勝利を挙げ、この4年間の通算で52勝30敗の成績を収めることができたばかりか1942年には防御率2.10を記録、41歳で最優秀防御率投手にまでなっている。

第二次世界大戦での現役中断を挟んで1946年には45歳で5試合に登板、同年現役を引退する。通算の勝ち星は260勝だが当時ヤンキースの監督だったジョー・マッカーシーは、「もしヤンキースで投げていれば400勝以上はできただろう」とライオンズを評していた。引退後ホワイトソックスの監督を勤めるも1948年に101敗を喫して退任。その後は投手コーチとして1949年から1952年までデトロイト・タイガース、1954年の一年間ブルックリン・ドジャースに在籍している。

1955年に記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。その後は1967年に勇退するまで古巣ホワイトソックスのスカウトを務めた。

晩年はルイジアナ州サルファの老人療養施設にて過ごし、1986年7月25日に同施設で死去。86歳没。ライオンズのホワイトソックス在籍時の背番号「16」。
シカゴ・ホワイトソックスの永久欠番1987年指定。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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