テッド・クルズースキー
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テッド・クルゼウスキー

テッド・クルズースキー
Ted Kluszewskiレッドレッグスでの現役時代(1954年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地イリノイ州クック郡サミット(英語版)
生年月日 (1924-09-10) 1924年9月10日
没年月日 (1988-03-29) 1988年3月29日(63歳没)
身長
体重6' 2" =約188 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション一塁手
プロ入り1945年
初出場1947年4月18日
最終出場1961年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴


アルゴ・コミュニティ高等学校(英語版)

インディアナ大学

シンシナティ・レッズ
シンシナティ・レッドレッグス
(1947 - 1957)

ピッツバーグ・パイレーツ (1958 - 1959)

シカゴ・ホワイトソックス (1959 - 1960)

ロサンゼルス・エンゼルス (1961)

コーチ歴


シンシナティ・レッズ (1970 - 1978)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

セオドア・バーナード・クルズースキー(Theodore Bernard Kluszewski, 1924年9月10日 - 1988年3月29日)は、アメリカ合衆国イリノイ州クック郡サミット(英語版)出身の元プロ野球選手一塁手)、野球指導者。左投左打。愛称はビッグ・クル(Big Klu)。

メディアによっては「クルゼウスキー」と表記されることもある。
経歴
現役時代

インディアナ大学時代はフットボールの選手だった。1945年第二次世界大戦によるアメリカ国内の旅行制限で温暖な地を使用できなかったシンシナティ・レッズが同大学でキャンプを張った際にグラウンドキーパーのアルバイトとして居合わせ、打撃練習に参加して素質を認められたのがきっかけで入団した。現役時代のクルズースキー。この頃はまだ半袖だった(1953年)

1947年4月18日にメジャーデビューすると、翌1948年一塁手のレギュラーとなった。丸太のような太い腕を持つ外見の通りパワーが売りで、1953年から1955年にかけて3年連続で40本塁打以上を放った。特に1954年は、打率.326(ナショナルリーグ5位)、49本塁打、141打点の成績を残し、二冠王に輝いた。また、パワーだけでなく、打率3割も7回記録(1952年からは5年連続)の上に三振も1955年の40個が最多と確実性も兼ね揃えていた。さらに一塁の守備も卓越しており、1951年から5年連続でナショナルリーグの一塁手では最高の守備率を記録していた。

1957年に椎間板を痛め、翌1958年以降はピッツバーグ・パイレーツシカゴ・ホワイトソックスロサンゼルス・エンゼルスの3球団を渡り歩いた。

ホワイトソックスでは1959年ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでの活躍が目立ち、第1戦に2本塁打、5打点、シリーズ通算で打率.391、3本塁打、10打点と打ちまくった[1]

エンゼルスには1960年オフのエクスパンションドラフトで指名されてからの移籍だった。1961年4月11日、記念すべきエンゼルス球団としての初陣となるボルチモア・オリオールズとの開幕戦では「4番・一塁手」として先発起用され、2本塁打を放った[2]。この年限りで引退した。
引退後

引退後はレストランと野球学校の経営に力を入れていたが、1969年にレッズ傘下のマイナー球団の打撃コーチとして現場に復帰した。1970年よりレッズのコーチとなり、監督のスパーキー・アンダーソンを支え、1978年まで務めた。1979年からは再びレッズの傘下マイナー球団の打撃コーチとなり、1983年に一時レッズにてコーチを務めた以外は1986年までファームで指導を行った。

晩年は心臓病に罹患してバイパス手術を受けたこともあり、それ以降は全ての職を辞して療養生活を送ったが1988年3月29日に心臓病のため死去。63歳没。クルズースキーのレッズ在籍時の背番号「18」。
シンシナティ・レッズの永久欠番1998年指定。

死後、1998年1月18日にレッズは、クルズースキーが着けていた背番号『18』をフランク・ロビンソンの『20』、ジョー・モーガンの『8』と共に永久欠番に指定した[3]
人物

ピークだった1950年代中盤、クルズースキーは自分でユニフォームの袖部分を切り、ノースリーブのユニフォームを着用して話題となっていた(190cm、110kgという体躯を誇ったクルズースキーにとってユニフォームの袖は窮屈でしかなく、袖のあるユニフォームだと強烈なバット・スウィングの際、あまりの力で袖がちぎれてしまうことがあって邪魔となってしまうため)[4][5]1956年、レッズはチーム単位でノースリーブのユニフォームを採用した。これは看板選手であるクルズースキーの盛り上がった筋肉を見せるため[3]という説もある。

パワーヒッターでありながら三振の少ない打者であった。全盛期の4年間(1953年-56年)の累計本塁打は171本であるが、その4年間の累計三振数は140個で、本塁打よりも少ない[6]。「年間40本塁打以上で年間の三振数が本塁打より少ない」という記録は、歴代のメジャーリーガーのうち6名が延べ10回達成したのみの珍しい記録で[6][7]、10回のうち最多の3回をクルズースキーが達成している[6][7]
詳細情報
年度別打撃成績


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