テクノ_(ダンスミュージック)
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テクノ
様式的起源
エレクトロシカゴ・ハウスデトロイト・テクノ
文化的起源1980年代
使用楽器ドラムマシンキーボードパソコンサンプラーシーケンサーシンセサイザー
サブジャンル
アンビエント・テクノ、ミニマル・テクノ、アシッド・テクノインダストリアル・テクノ、ダブ・テクノ
融合ジャンル
ハードコアテクノノイズアンビエント・テクノ
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テクノ(: Techno)は、アメリカミシガン州デトロイトを発祥とするエレクトロニック・ダンス・ミュージック。なお、クラフトワークをはじめとするドイツで生まれた電子音楽は「テクノポップ[注 1][1]とも呼ばれる。 
歴史
前史

エレクトロニック・ダンス・ミュージックとしてのテクノに至る前史として、電子音楽のポップスへの転化の試みが行われていたことに留意する必要がある。1970年代から活動を続けていた、クラフトワークYMOジョルジオ・モロダーテレックス等、電子音楽の手法をポップスに応用しようと試みるアーティストが先進国を中心に現れ始めていた。彼らの音楽は世界中でシンセポップ(日本ではテクノポップ)と呼ばれ、最先端の音楽として注目を集めるに至っていた。これらのシンセポップにより、商業音楽におけるシンセサイザーの有効性が世界中に認知されることになった。
黎明期

音楽プロデューサーのジョルジオ・モロダーは、1970年代には、反復的なダンス・リズムにシンセサイザーを使用していた。1976年にドナ・サマーのために制作された彼のトラック『I Feel Love』は、一般的なハウス・ミュージックとエレクトロニック・ダンス・ミュージックのマイルストーンと見なされている。

1980年初頭、アメリカのシカゴでは、その大半がゲイの黒人で占められるクラブにおいてDJによるダンス・ミュージックのさまざまな実験的DJプレイが試されていた[2][3](「ハウス・ミュージック」を参照)。そのような中、それまでのダンス・ミュージックの歴史にはみられなかった画期的な出来事が起こっていた。音楽作成の素人であるDJや、作曲の知識がなく楽器の演奏もできないクラブ通いの少年たちがDIYでレコードを作り始めたのだった[4][5]。それは当時DJプレイでも使われていたドラムマシンの単調な反復のビートの上に、彼らの好きなレコードからベースラインやメロディを持ってきて組み合わせるという非常に稚拙なつくりではあったが[6]、シカゴのDJたちはこぞってそれらのレコードを採用した。こうしたいわゆる「シカゴ・ハウス」や、そのサブジャンルであり偶然に生まれた「アシッド・ハウス」によるムーブメントが当時の地元シカゴでは隆盛を極めていた[7][8]

1980年代前半から中盤にかけ、シカゴに隣接する都市であり、同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでもシカゴとデトロイトを行き来する人々によりこのシカゴ・ハウスが持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてくる[9][10]。この音楽成立に関わった主なアーティストとしては、同じ学校に通っていた音楽仲間でありDJ集団も組んでいたホアン・アトキンスデリック・メイケヴィン・サンダーソン[11]らの、いわゆる「ビルヴィレ・スリー」(3人の出会った場所が地元デトロイトのビルヴィレ地区であったため名づけられた)が挙げられる。彼らの音楽はシカゴ・ハウスの影響を受けつつも、従来のハウス・ミュージックが持つ享楽性に対し厳しい現実を反映したシリアスな音楽を志向し[12]、音楽雑誌の取材時にはより政治的・思想的な側面を打ち出していた。特に第一人者であるホアン・アトキンスはその時すでにエレクトロのユニットの活動を通して一定の名声を得ており、テクノロジーの上では電子的な音のギミックやベースラインを、思想としてアフロ・フューチャリズムと呼ばれる黒人特有のSF・未来志向を強調していた[13]

ハウス・ミュージックに触れる以前のデトロイトの音楽的環境については、デトロイトには基本的にクラブのシーンがなかったので、人々が音楽に触れることの多くは地元の著名なラジオDJ、エレクトリファイン・モジョによるラジオのプログラムを通じてであった。デトロイトにおいて電子音楽の影響が見られるのは、彼独特のセンスで選んだヨーロッパの電子楽器を使った音楽を好んで流していたためとされる[14][15]

アメリカのハウス・ミュージックの流れとは全く異なり、1978年から1980年初頭、ドイツを中心とした リエゾン・ダンジェルーズ、The Normal、DAFなど、黒人音楽特有のグルーブ感が全くない、いわゆるテクノ・ミュージックが誕生した。
転機

1988年、やがて彼らが作っていたデトロイト発のレコードのヒットに目をつけたイギリスのヴァージン・レコードにより、その傘下から編集盤アルバムが発売されることとなり、広報の一環としてイギリスの雑誌『ザ・フェイス』内でデトロイトの特集記事が組まれた。取材の中でインタビュアーが「あなた方の音楽をどう呼んだらいいのか」と問い掛け、それに対しホアン・アトキンスが「おれたちはテクノと呼んでいる」と答える。アルバムにはインタビューの内容と同期するタイトルがつけられ、「テクノ! ザ・ニュー・ダンス・サウンド・オブ・デトロイト」(英:Techno! - The New Dance Sound Of Detroit)は発売された[16][17][18]。このアルバムはヒットし、さらにシングル盤として分けられたインナー・シティの「ビッグ・ファン」(英:Big Fun)はイギリスのダンスチャートのトップ10にランクインし、全世界で600万枚の大ヒットを記録した[19]。ここに現在一般に呼ばれる「テクノ」の名称が成立した。
勃興期

1988年?1991年にかけてイギリス北部でセカンド・サマー・オブ・ラヴと名づけられたドラッグアシッド・ハウスが結びついたムーヴメントが発生する[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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