テキサス州の歴史
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アメリカ合衆国の一部としてのテキサス州の歴史(テキサスしゅうのれきし)は、1845年に始まったが、この地域に人が住んだ集落については、後期旧石器時代までさかのぼる。その歴史は、スペインフランスメキシコテキサス共和国アメリカ連合国アメリカ合衆国の、6つの独立した国々の一部として形作られている。1820年代から、合衆国からの移民がこの州に入りはじめ次第にメキシコ人を上回るようになった。

1836年、テキサスのヒスパニックテハーノらと共に彼らはメキシコに対して独立闘争を起こし、独立を認めないメキシコ軍を打ち負かした。独立国家としての10年間の後、テキサス州は1845年に合衆国に加わった。

西部開拓者の州は、大規模な牛の放牧と綿花農業によって特徴づけられていた。20世紀に入ると急激に成長し、1994年には米国で二番目に人口の大きい州となり、ハイテク産業を基盤にして経済上極めて多角的になった。州は、アメリカ南部、テハーノ、アフリカ系アメリカ人ドイツ系テキサス人(w:German Texan)のそれぞれの文化の交流で形成されている。
テキサスの先住民

現在のテキサス州境内に一度でも住んだことのあるネイティブアメリカンの部族は、アパッチアタカパ、ビダイ(Bidai)、カドコマンチェ(Comanche)、チェロキーカランカワ(Karankawa)、カイオワ、トンカワ(Tonkawa) 、ウィチタを含む。

現在、以下の3つの連邦政府承認のネイティブアメリカン部族がテキサス州に居住している。

the Alabama-Coushatta Tribes of Texas→アラバマコウシャッタ

the Kickapoo Traditional Tribe of Texas→キカプー

the Ysleta Del Sur Pueblo of Texas→プエブロ

仏領テキサス詳細は「フランス領テキサス」を参照

スペイン人が現在のテキサス州の南部境界に、ごく初期に名目上の部隊を送っていたとはいえ、最初にテキサスの主要な部分と中心地に定着したヨーロッパ人はフランス人である。しかし、フランス植民地は短命な存在で終わった。現在のアメリカ合衆国の内陸部を探険後帰国したフランス貴族のラ・サールは、メキシコ湾ミシシッピ川河口にフランス植民地を創ることを計画した。1684年、彼らは4隻の船と300人の入植者と共にフランスを離れた。遠征は、海賊と敵意を抱くインディアン、それに慣れない航行に苦しめられた。一隻の船はカリブ海の海賊によって奪われ、二番目の船はマタゴルダ湾の入り江に沈み、三番目の船はそこで座礁した。それでも彼らはビクトリア(Victoria)の近くに、セントルイス砦を建設した。

ラ・サールは、テキサスからミシシッピまでの最短のルートを見つけるべく、東方へ徒歩で三回遠征隊を率いた。三度目の遠征において、彼の36名の従は反乱を起こし、現在のナバソタ(Navasota)に近い場所で、反乱者の中の4名によって殺された。植民地としてのセントルイス砦は、カランカワ語を話すインディアンによって残っていた20名の成人を皆殺しにし、5名の子供を捕虜にした1688年までしか持ちこたえられなかった。その遠征の悲運を知ったトンティは、1689年に偵察の使節を派遣したが、砦に生存者はいなかった。

テキサスの植民地の失敗にもかかわらず、スペイン人がこの地を植民地とした後もフランスはテキサスが自国領であると主張し続けた。テキサスの歴史におけるフランス領時代は、テキサスの州の標章と、伝統のあるシックス・フラッグス・オーバー・テキサス(w:Six flags over Texas, テキサス州の6つの旗)の一番目(または二番目)として記念されている。
主な出来事

1529年:スペイン人探検家の
アロンソ・アルバレス・デ・ピネダが、おそらくテキサス海岸の地図を描いた最初ヨーロッパ人となる。

1528年-1534年:別のスペイン人探検家、アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカは、交易のためにテキサスを6年かけて訪れた。

1685年2月18日:ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールが、マタゴルダ湾にセントルイス砦を建設。これによってテキサスのフランス領地化が確立する。

1688年:フランス植民地(セントルイス砦)が大殺戮により壊滅。

1689年:フランスは実質的にテキサスから撤退する。しかし、フランスはこの後70年間にわたりテキサスを領地と主張する

1762年:フランスはテキサスへの要求を捨て、40年間、スペインへルイジアナを譲渡する(1800年まで)。

1791年:ハイチ革命1791年 - 1804年)が勃発。

1800年8月1日:北テキサスの大部分がフランスに戻るが後に1803年のルイジアナ買収でアメリカ合衆国へ売られる。

スペイン領テキサス詳細は「スペイン領テキサス」および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照

フランスの植民地化の失敗が世界中に知れ渡った一年後、スペイン人はテキサスに入植を始めた。この目的は、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)から距離のあるルイジアナに、フランス人をとどめておくことであった。テキサスは、フランスとスペインの両大国の主張する領土の挟間で、重要ではあるが人口が希薄な緩衝地になった。テキサスは副王領のヌエバ・エスパーニャとしてではなく、スペインの植民地として統治された。このスペイン領テキサス時代は、1690年から1821年の間続いた。この時代は、セントルイス砦のフランス植民地の廃墟を破壊して、新たに同じ場所にスペインによる実効支配地域を創設するためのコアウイラ州総督による遠征で始まり、1821年のメキシコ独立革命によるメキシコの独立でメキシコ領テキサスとなることで終わった。

17世紀と18世紀には、スペインとフランスはテキサス州の支配を画策し、スペインはメキシコとニューメキシコ州に、フランスはルイジアナ州に基礎を置いて対立した。スペインの動きは早く、開拓地の足がかりを創るための一連のミッション(伝道団体)を、しばしば軍隊を伴いながら創設した。ヨーロッパで1718年から1720年までの四国同盟対スペインの戦争は、新世界にまで拡大した。ナカタシュ(Natchitoches)からのフランス部隊はあっさりとテキサスの首都及びロスアダエス(w:Los Adaes, 現在の北西ルイジアナ)を占領した。結局フランスは、武力でスペインからテキサスの支配を奪い取ることはできなかった。テキサスの支配をめぐるスペインの脅威への対処は、19世紀初めのルイジアナ買収によってこの北米の領地がアメリカ合衆国に売却されたことにより、フランスから米国へ移った。

ルイジアナ買収と、米国によるニューオーリンズの取得を受けて、数年後にはアメリカ人の入植者たちが西へ移動し始め、メキシコが自国領であると主張する地域へ入った。何人かの入植者は活発なフィリバスターで、彼らはアメリカ合衆国による長期間の併合を目論んでいた。例えば、1812年から1813年のグティエレス=マギー遠征(英語版) (Gutierrez-Magee Expedition) の目的は、スペイン帝国からテキサスを分断させる企てであった。
重要な出来事

1690年:アロンソ・デ・レオーンは、東テキサスに伝道施設を創設するために
リオ・グランデ川を渡り、オールド・サンアントニオ・ロード(w:Old San Antonio Road)を切り開く。

1700年?1799年:スペインは18世紀、テキサス州の至るところにカトリックの伝道団体を創る。

1819年:アダムズ=オニス条約アメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャの国境を確定するための条約。

メキシコ領テキサス詳細は「メキシコ独立革命」および「テキサスのインディアン戦争」を参照

メキシコ領テキサスはテキサス史の研究家が、1821年から1835年の間の時代を要約して付けた名で、テキサスがメキシコの一部、コアウイラ・イ・テハス州であった時代を指す。この時代は1821年のメキシコ独立革命スペインに対するメキシコの勝利に始まり、1836年のメキシコからのテキサス独立宣言で終わる。

リオ・グランデ川と南テキサスのエリアには、中央メキシコ政府による統一された目に見える独裁と違憲行為の理由で、当地のメキシコ人たちによる独立運動の長くて波乱の歴史がある。その一方で、北テキサスと東テキサスの大部分はネイティブアメリカンの部族の手中にあり、彼らの一部はスペインとそしてメキシコの統治に敵意を抱いていた。

1820年代、テキサスの人口は非常にまばらであり、メキシコ政府としてはこの領域に居住者を引き入れることは重要な課題であった[1]。メキシコ独立時の1821年のデータによると、軍人を除いて2200人程度のメキシコ人しかテキサスに住んでいなかった[1]。独立間もないメキシコは新生国家の運営に手を焼き、北方の領地の人口対策に力を注ぐ余裕がなかった[2]

そこで、テキサスに人を住ませ発展させるために、メキシコはヨーロッパから、特に隣接した米国から、入植者を探した。スティーブン・オースティンはメキシコ政府と交渉の末、1822年に米国からの300名の家族(テクシャンとして知られる)を合法的にテキサスへ移住させた[3]。メキシコ政府はアメリカ人個人の入植は許可せず、オースティンなど植民事業者が扱う入植のみを承認した[3]。メキシコは独立以前から奴隷制撤廃の気運があり、そのためテキサスへの奴隷の持ち込みは承認されたが、メキシコ国内での売買は禁止され、また奴隷の子供は自由な身分になることを条件とされた[3]。入植者の持ち込んだ資材は課税対象外で、入植後7年間は無税という有利な条件の他に、スペイン語の使用、カトリックの信仰、メキシコの法の遵守、海岸部と国境域の入植の禁止などが条件に盛り込まれた[3]

メキシコでは1824年に憲法が制定され連邦共和国となり、細則についてはコアウイラ・イ・テハス州当局に裁量権が委ねられ、現地当局は入植者に有利な対応をした[3]。オースティンはメキシコとの入植条件を遵守して入植者にも従わせようとしたとされるが、特に奴隷の条件について不満を募らせる者も出てきた[4]。1826年にはフィリバスターが不満分子を操って東部のナコグドチェスで「フレドニア共和国」の独立を宣言するが、これはオースティンとメキシコ当局により鎮圧された[4]

テキサスのアメリカ人人口は急増し、植民事業者を介さずに不法に入国する者も含めて、メキシコ人を数で凌駕するようになった[4]。1830年の時点で奴隷を含む25000人以上のアメリカ人がテキサスにいたのに対して、メキシコ人は4000人程度であった[5]。事態を重く見たメキシコ政府は1830年にアメリカ人のテキサスへの移民禁止令を出すが、不法入国者が急増していたためこの発令は無意味であったし、それを阻止する軍事力もメキシコ当局にはなかった[5]。その一方でアメリカ人側は、1829年にメキシコが全国的に奴隷制を廃止した時、一部のものは強力に抵抗して法に従うことを拒否した[5]。オースティンは彼らのコアウイラ・イ・テハス州からの分離を望む主張を知りつつ、メキシコシティに交渉に向かったが成果は得られず、その上旅先で押収された手紙が原因でメキシコ当局に一年間拘留された[5]

1835年、メキシコ大統領のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナは、1824年憲法(w:1824 Constitution of Mexico)を廃止して、メキシコシティに国家権力を集中させようと試みた。これは、サカテカス州での反乱とそれによる大虐殺の例のように、メキシコの至るところに多くの政治的な動揺を引き起こした。結果として、テキサスの領地の政治的、経済的な支配を強める新しい政府の取り組みは、後にテキサス革命を率いるテクシャン入植者と地元のテハーノの感情を目覚めさせるだけだった。メキシコから解放されて戻ったオースティンにはもはやテキサス住人を抑える術はなく、彼自身もテキサスへの帰途でニューオーリンズに寄り武器を調達している[6]
重要な出来事

1823年1月3日:
スティーブン・オースティンは、現在のフォートベンド郡ブラゾリア郡の、主に現在のシュガーランド(Sugar Land)エリアを中心とした、ブラゾス川流域への300家族の入植を開始させた。この家族たちは、"Old Three Hundred"として知られている。

1832年6月26日:ベラスコの戦いで、テキサス革命による最初の犠牲者が出た。

1832年?1833年:1832年と1833年の議会は、メキシコ政府の統治の政策への動揺の増加に対応した。テキサンを最もいらだたせた政策には、メキシコでの奴隷制の廃止、テキサン入植者の強制的な武装の縮小、そして米国からの不法な移民の追放を含んでいる。サカテカス州での、セントラリスタの軍の反体制派への抑圧の例は、メキシコ政府の恐怖をいっそう引き起こした。

テキサス共和国詳細は「テキサス革命」を参照 メキシコ軍アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍

テキサス住人はメキシコに対して、税関の廃止、無税期間の延長、不法入国者の土地所有の承認と要求を吊り上げ、1835年6月には東部の沿岸部の町(今日のガルベストン)を武力制圧した[6]。同年10月には、彼らはメキシコからの分離を宣言し、12月にはベハル(今日のサンアントニオ)を攻めた[6]。このメキシコに対する反乱には、テキサスに居住するメキシコ人も含まれていた[6]


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