テキサス大学アーリントン校
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テキサス大学アーリントン校


大学設置/創立1895年
学校種別州立
設置者Regents of the University of Texas
本部所在地アメリカ合衆国テキサス州アーリントン
学生数24,888
キャンパスアーリントン
学部教育学部
経営学部
工学部
看護学部

研究科経営大学院
工学大学院
教育大学院

ウェブサイト ⇒http://www.uta.edu/
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テキサス大学アーリントン校(英語: The University of Texas at Arlington)は、アメリカ合衆国テキサス州アーリントンに本部を置くアメリカ合衆国州立大学1895年創立、1895年大学設置。略称はUT Arlington、Texas ArlingtonおよびUTA。

1895年にアーリントン・カレッジ(英語:Arlington College)という陸軍士官養成学校として開校。1902年にカーライル陸軍士官学校(英語:Carlisle Military Academy)、1913年にアーリントントレイニングスクール、そして1916年にアーリントン陸軍士官学校(英語:Arlington Military Academy)と名前を変える。1917年にテキサスA&M大学の分校(北キャンパス)として組み込まれるが、カレッジステーションキャンパスばかりに重点をおくA&Mの方針から徐々に距離を置くようになる。その後1965年4月23日、正式にテキサス大学の傘下となり1967年に現在の名称(英語:The University of Texas at Arlington)となる。現在は11の学部、48の学科からなる総合大学。スポーツチームおよび学生一般の呼称としてマーベリックス(英語:Mavericks)あるいは省略形のマブズ(英語:Mavs)が用いられる。1999年、隣接都市のフォートワースにキャンパスを設置。学校カラーは青色でマスコットはブレイズと呼ばれる馬。

開校当初から陸軍系の学校であった伝統は現在も引き継がれ、陸軍予備役将校訓練課程(ROTC)および空軍予備役将校訓練課程(AFROTC)が設置されている。

工学系、看護学系の評価が高く、宇宙工学は常に全米のトップ5。コンピュータ工学、ソフトウェア工学では全米のトップ20に顔を出すこともある。またTXDOT(英語:Texas Department of Transportation)職員の30%以上が同校出身者であり、Department内最大の学閥である。

2016年2月、カーネギー評価でアメリカの大学の第一群 (英語:Tier-1)の仲間入りをする。

2019年の春の時点で学生数は43,939となる。
歴史 アーリントン大学のキャンパスに最初に建てられた校舎。本館は1895年秋に開校した。現在のカレッジホールの真向かいに位置するカレッジセンターの場所に位置していた。

参照文献:英語:en:History of the University of Texas at Arlington (1895?1917)
設立(1895?1916)

大学の歴史は、1895年9月のアーリントン大学の開校にさかのぼる。アーリントンカレッジ(英語:Arlington College)は、初等から中等レベルの生徒のための私立学校として設立され、現代の1年生から10年生に相当する。当時、アーリントン市の公立学校制度は、資金不足と人員不足の状態にあった[1]。地元の商人、エドワード エメットランキン(Edward Emmett Rankin)は、市内の仲間の市民を組織して資材を寄付し、現在のキャンパスがある現在の校舎を建設するために土地を寄付をした[2]

また、ランキン(英語:Rankin)は、アーリントンの公立学校の2人の校長であるリーモーガン ハモンド(英語:Lee Morgan Hammond)とウィリアムマーシャルトリンブル(英語:William Marshall Trimble)に対して、アーリントンカレッジへの投資と同じ地位の保持を確信させた。 最初の数年間において、75人から150人の学生がアーリントンカレッジへ入学した。 公立学校は、アーリントンカレッジのキャンパスにおいてスペースを貸し始め、1900年に、最終的にはアーリントン市に売却された。 公立学校の建物は非常に安全な状態でなくなったため、1902年にアーリントン独立学区が設立されるまで、1901年から1902年までの期間、アーリントンカレッジのすべてのスペースが貸し出されていた。 公教育システムは改善する予定であったが、アーリントンカレッジが閉鎖され、不動産はジェームズ マッコイ カーライル(英語:James McCoy Carlisle)に売却された。カーライル陸軍士官学校、1911年撮影

カーライルは既にノーステキサス地域で尊敬される教育者として地位を確立し、1902年の秋にカーライル陸軍士官学校(英語:Carlisle Military Academy)を開校した。 彼のプログラムは、コースワークと軍事訓練とで構成されていた。カーライル陸軍士官学校への入学者は、1905年までの間で150人までに増えた。そして、カーライルはキャンパスの大規模な拡張を試みた。 野球、サッカー、バスケットボール、および陸上競技は、1904年から1908年の間に始まった。 それと同時に、新しいバラック、陸上競技場トラック、体育館、そして屋内プールが建設された。 カーライル陸軍士官学校は、アメリカ国内での最高レベル校の1つの学校として知られるようになった。[2] しかしながら、施設の拡大に伴い入学者数は増えず、カーライルは深刻な財政問題に直面した。

学校施設の不動産ローンの訴訟は1911年に提起され、カーライル陸軍士官学校は1913年に閉鎖された。 1913年の秋、 ヘンリーカービーテイラー(英語:Henry Kirby Taylor)は、ノースウェスト州立教師大学(英語:the Northwest State Teachers' College)の学長を務めたミズーリ州からアーリントン市へと移り、 アーリントントレーニングスクール(英語:Arlington Training School)と呼ばれる別の軍士官学校を設立した[3]。彼はまた、学校設置者として、財政と学校施設を管理するように要求された。1914年から1915年までには、アーリントントレーニングスクールのキャンパス規模は10エーカー (40,000 m2)となり、95人の学生が在籍する学校となった[4]。1915年、アーリントントレーニングスクールは、既存の建物を改善するための資金を調達するために学校法人とされたが、さらに財政問題が発生し、一連の訴訟が提起された。その後、テイラーはアーリントンを去り、学校側はジョンB.ドドソン(英語:John B. Dodson)を雇い、1916年から1917年にかけてアーリントン陸軍士官学校( 英語:Arlington Military Academy)と呼ばれる3番目の軍事官学校が設立された。しかし、入学者数は非常に少なく[2]、アーリントン陸軍士官学校は1年後に閉鎖された。
テキサスA&Mユニバーシティシステム(1917?1965)ノーステキサス農業大学のサイエンス学科の校舎、1941年撮影。建物は1928年に建てられ、プレストンホールと名された。 テキサス大学アーリントン校のキャンパスに現存する最も古い建物の1つである。NTACの士官候補生隊、1920年代

20世紀に入ってから、大学施設を公立の短期大学へと見なす可能性が議論されてきた。1917年までには、カレッジステーション(英語:College Station)市に存在するテキサス農業機械大学(英語:the Agricultural and Mechanical College of Texas)は過密状態となり、また、テキサス農業機械大学は1つのブランチキャンパス、プレーリービューA&M(英語:Prairie View A&M)キャンパスのみ所有している状態であった。弁護士であり教育の擁護者であったビンセントウッドベリーグラブ(英語:Vincent Woodbury Grubb)は、アーリントン市の当局者を集め、州議会に働きかけ、新しい短大を創設した[5]。アーリントンキャンパスは、テキサス農業機械大学のブランチキャンパスとして設立され、グラブボケーショナルカレッジ(英語:Grubbs Vocational College)と呼ばれた[6]。マイロン・L・ウィリアムズ(英語:Myron L. Williams )が、その短大校の初代学長に任命された。 学生は、高校または短期大学のプログラムに在籍していること、そして、すべての男子学生は士官候補生であることが要求された[7]。そして、その大学名は、1923年に再びノーステキサスアグリカルチュラルカレッジ ( 英語:North Texas Agricultural College (NTAC))に変わった。 1925年、エドワードエベレットデイビス(英語:Edward Everett Davis)は、ウィリアムズの後を継ぎ、学部長の地位を21年間維持した。

デイビスは継続的に、学生、教職員、そして学校施設の質の向上に取り組んだ[8]世界恐慌により資金が大幅に削減され、学生数が減少したため、専門技能を学ぶクラスよりも、より一般的な大学のコースが徐々にNTACのカリキュラムに導入された。第二次世界大戦中においては、NTACは、「戦争プログラム英語:”war program”」に焦点を当て学生を訓練し[9]、1943年において、131の大学へと提供されたV-12海軍大学トレーニングプログラムへ参加した[10]。また、1943年に、デイビスは、1942年において学籍係であったアーネストヘレフォード(英語: Ernest H. Hereford)に副学部長に任命した。 1946年においてデイビスが退職した後、ヘレフォードはNTACの学部長に任命された[11]

1948年、テキサスA&Mシステム(英語:the Texas A&M System)が構成され、ヘレフォードはNTACの初代大学学長に指名された[12]


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