テオバルド1世_(ナバラ王)
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年9月)

テオバルド1世
Teobaldo I
ナバラ王

在位1201年 ? 1253年
別号シャンパーニュ伯

出生 (1201-05-30) 1201年5月30日
フランス王国シャンパーニュ伯領、トロワ
死去 (1253-07-08) 1253年7月8日(52歳没)
ナバラ王国パンプローナ
埋葬 ナバラ王国パンプローナ大聖堂
配偶者ジェルトリュード・デギサイム
 アニェス・ド・ボジュー
 マルグリット・ド・ブルボン=ダンピエール
子女一覧参照
王家シャンパーニュ家
父親シャンパーニュ伯ティボー3世
母親ブランシュ・ド・ナヴァール
テンプレートを表示
テオバルド1世が用いた国璽(複製品)

テオバルド1世(西: Teobaldo I de Navarra, : Thibaut Ier de Navarre, 1201年5月30日 ? 1253年7月8日)は、フランスシャンパーニュ伯(ティボー4世、在位:1201年 ? 1253年)、後にナバラ王(在位1234年 ? 1253年)。詩人王、遺腹王と呼ばれる。目次

1 生涯

2 人物

3 子女

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

生涯

シャンパーニュ伯ティボー3世とナバラ王女ブランシュ(ブランカ、サンチョ6世の娘)の子として生まれる。生まれる前に父が他界したため、誕生とともに伯位を継承し、遺腹伯と呼ばれたが、21歳になるまでは母ブランシュが国を統治した。

当初は、エルサレム王となった伯父アンリ2世(1166年 ? 1197年)の遺児たち、娘フィリパとその夫ラメール公エラール1世との家督争いに悩まされた。この抗争は1215年からティボーが成人する1222年まで続き、エラール夫妻の多額の借金を肩代わりすることにし、争いはようやく治まった。1234年にはフィリパの姉であるキプロス王妃アリスの負債も肩代わりした。また、伯父や父の十字軍遠征によりシャンパーニュ伯家はすでに莫大な借金を抱えており、この点でも苦労することになった。

さらにフランス王ルイ8世と対立し、アルビジョア十字軍の際にアヴィニョンから勝手に陣払いをしたことで対立が明確になった。直後にルイ8世が急死したため、ティボーが毒殺したと噂された。そのためルイ9世の戴冠式への出席は許されなかった。ルイ9世の即位後、母后ブランシュ・ド・カスティーユ摂政に就くと、ティボーは王家と対立するのをやめ、ユーグ・ド・リュジニャンやピエール・モークレールとも和解して協力関係を築いた。

ティボーは王太后ブランシュと恋に落ちていたと言われ、残した詩の多くはブランシュに宛てたものだと言われる。ティボーは宮廷での政治的影響力を強くしていったが、他の貴族から反感を買い、1229年から戦闘が始まった。この時は王太后の援助によって危機を切り抜けたが、翌1230年にルイ9世と対立して攻撃を受けた際には、ブロワサンセールシャトーダンの統治権を王に売却することで和解しなければならなかった。

1234年サンチョ7世の死去によりナバラ王家が断絶した際、母ブランシュがサンチョ7世の妹だったことから、テオバルド1世としてナバラ王位を継承した。この相続によって財政的には非常に豊かになり、以後は大過なく平和な晩年を過ごした。

1238年にはティボーは聖地エルサレムへの遠征軍を率いた。これに先立ち、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は聖地へ赴き戦いでなく交渉でエルサレムを獲得したが(第6回十字軍・破門十字軍)、対立するローマ教皇グレゴリウス9世はこれを敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想して「公式な」十字軍を送ろうとした。しかし頓挫し、ティボーほかフランスの諸侯による小規模な出陣となったものである。

しかし、1239年夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。すでにエルサレムその他の領土はキリスト教徒側にある上、休戦が続いており、ティボーらはアッコンの宮廷で詩をよんで過ごし、アスカロンで築城をした。彼らはカイロとダマスカスに分かれて戦うアイユーブ朝宮廷の双方から援軍としての同盟を持ちかけられ、交渉によりヨルダン川地中海の間にエルサレム王国の領土を拡大し、ハッティンの戦い以前に匹敵するほどにした。これは領土的な成果としては第1回十字軍に匹敵するものであったが、現地の政治情勢に乗じた結果であり、ティボーの遠征前の意図とは異なった。1240年末、イングランドからコーンウォール伯リチャードが到来する前に、エルサレムの主導権争いを嫌いパレスチナを去った。グレゴリウス9世の意を受けて遠征したコーンウォール伯も戦うことはなく、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。
人物

ティボー4世はトルバドゥールとしても知られ、才能ある詩人であった[1]。ティボー4世の詩は現在でも約60篇ほど残っており、中にはメロディーが伝えられているものもある。詩は恋愛に関するものが多く、騎士と田舎娘の恋物語や、宮廷での恋愛模様を描いたものもある。
子女

ティボー4世は3度結婚した。最初の結婚は1220年、ダボ伯(ダグスブルク伯)アルベール2世の娘で、ロレーヌ公ティボー1世の寡婦であったジェルトリュード・デギサイム(ゲルトルート・フォン・エギスハイム)とであるが、2年後の1222年、ティボーが成人すると離婚した。

1223年にボジュー領主ギシャール4世の娘アニェス・ド・ボジュー(Agnes de Beaujeu)と2度目の結婚をし、1女をもうけた。

ブランシュ(1226年 - 1283年) - ブルターニュジャン1世と結婚

1231年にアニェスと死別すると、翌1232年にブルボン領主アルシャンボー8世の娘マルグリット・ド・ブルボン=ダンピエールと3度目の結婚をした。

マルグリット(1306年没) - ロレーヌ公フェリー3世と結婚

ティボー5世(テオバルド2世)(1238年頃 - 1270年) - ナバラ王(1253年 - 1270年)

ベアトリス(1242年頃 - 1295年) - ブルゴーニュ公ユーグ4世と結婚

アンリ3世(エンリケ1世)(1244年頃 - 1274年) - ナバラ王(1270年 - 1274年)

脚注

[脚注の使い方]
^ バード、p. 99 - 100


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef