テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク
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ドイツ帝国政治家テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークTheobald von Bethmann Hollweg
1913年のベートマン・ホルヴェークの肖像写真
生年月日1856年11月29日
出生地 プロイセン王国
ブランデンブルク州(ドイツ語版) ホーエンフィーノウ(ドイツ語版)
没年月日 (1921-01-01) 1921年1月1日(64歳没)
死没地 ドイツ国
プロイセン自由州
ブランデンブルク州(ドイツ語版)ホーエンフィーノウ
称号名誉陸軍中将
配偶者マーサ・フォン・プフェル
サイン
ドイツ帝国
第5代帝国宰相
内閣ベートマン・ホルヴェーク内閣
在任期間1909年7月14日 - 1917年7月13日
皇帝ヴィルヘルム2世
プロイセン王国
第27代首相
内閣ベートマン・ホルヴェーク内閣
在任期間1909年7月14日 - 1917年7月13日
国王ヴィルヘルム2世
ドイツ帝国
第4代内務長官
内閣フォン・ビューロー内閣
在任期間1907年6月24日 - 1909年7月10日
皇帝ヴィルヘルム2世
プロイセン王国
内務大臣
内閣フォン・ビューロー内閣
在任期間1905年3月21日 - 1907年6月24日
国王ヴィルヘルム2世
ブランデンブルク州(ドイツ語版)知事
在任期間1899年10月9日 - 1905年5月29日
国王ヴィルヘルム2世
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テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク
Theobald von Bethmann Hollweg

軍歴1914年 ? 1918年
最終階級
名誉陸軍中将 [注釈 1]
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テオバルト・テオドール・フリードリヒ・アルフレート・フォン・ベートマン・ホルヴェーク(Theobald Theodor Friedrich Alfred von Bethmann Hollweg, 1856年11月29日 ? 1921年1月1日)は、ドイツ内務官僚政治家第一次世界大戦開戦時のドイツ帝国の宰相。「灰色の猊下 (Gray Cardinal) 」と呼ばれた。
来歴
出自

1856年11月29日、地方公務員フェリックス・フォン・ベートマン・ホルヴェーク(ドイツ語版)の息子としてブランデンブルク州ホーエンフィノウに生まれる。祖父アウグスト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク(ドイツ語版)は著名な法律学者で、ベルリンフリードリヒ・ヴィルヘルム大学学長・プロイセン王国文化大臣を歴任した。先祖はホルヴェーク姓だったが、1748年に曽祖父ヨハン・ヤーコプ・フォン・ホルヴェーク(ドイツ語版)が、フランクフルト・アム・マインでベートマン銀行(ドイツ語版)を経営するベートマン家(英語版)の娘と結婚し、ベートマン・ホルヴェーク姓に改めた[1]。母親のイザベラ・ド・ルージュモンはフランス系スイス人であった。
政治家

ベートマン・ホルヴェークはストラスブール大学ライプツィヒ大学、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学で学んだ後、1882年にプロイセン内務省に入省。1899年にブランデンブルク州(ドイツ語版)知事に就任し、7月に元プロイセン首相エルンスト・フォン・プフェルの娘マーサと結婚した。1905年にプロイセン内務大臣に就任し、1907年に帝国国務大臣(ドイツ語版)に転任する。1909年ベルンハルト・フォン・ビューローの辞任に伴い、後任として帝国宰相に就任する[2]
ドイツ宰相軍装のベートマン・ホルヴェーク(軍人ではないが、大戦中に将軍の軍服を着る名誉を与えられた[3]

ベートマン・ホルヴェークは、イギリスとの建艦競争を避け宥和政策を掲げたが、海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツの反対に遭い失敗している。1911年第二次モロッコ事件が発生し緊張状態となるが、イギリスとの関係改善は進められた。バルカン戦争の際にはイギリス外務大臣エドワード・グレイと協力し緊張緩和に努め、3B政策についての妥協を求める交渉もしている。国内政治においても、ベートマン・ホルヴェークは左派の社会主義者、自由主義者と右派の民族主義者の間で妥協し合い、他の政治家との対立を避けていた。1914年6月28日、サラエボ事件が発生すると外務大臣ゴットリーブ・フォン・ヤゴー(英語版)とともにオーストリア=ハンガリー帝国を全面的に支援するため尽力した。グレイはオーストリアとセルビア王国の調停を提案したが、オーストリアが開戦を躊躇うことを危惧し提案を無視した。しかし、ベートマン・ホルヴェークもヤゴーも第一次世界大戦のような全面戦争は想定しておらず、オーストリア最後通牒が通達され事態の重大さを知り辞任を申し出たが、ヴィルヘルム2世に「君は自分が食べるためにシチューを作ったのだろう」と返答され拒否された[4]

戦前の外交政策の多くがイギリスとの良好な関係を築くことにあったベートマン・ホルヴェークにとって、ドイツがフランスに侵攻した際、ベルギーの中立を破ってイギリスが宣戦布告したことに特に憤慨している。エドワード・ゴッシェン駐独イギリス大使に、「紙くず」(1839年のベルギーの中立を保障するロンドン条約)のために、どうしてイギリスは戦争をするのか、と尋ねたという。


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