テオドール・モムゼン
Theodor Mommsen
1896年に撮影されたテオドール・モムゼン
生誕クリスティアン・マティアス・テオドール・モムゼン
Christian Matthias Theodor Mommsen
(1817-11-30) 1817年11月30日
( ドイツ連邦 / デンマーク)
シュレースヴィヒ公国 シュレースヴィヒ
死没1903年11月1日(1903-11-01)(85歳)
ドイツ帝国
プロイセン王国 ベルリン
国籍 ドイツ帝国
研究分野歴史学、法学
研究機関チューリッヒ大学
ヴロツワフ大学
フンボルト大学ベルリン
出身校クリスティアン・アルブレヒト大学キール
主な受賞歴ノーベル文学賞(1902年)
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1902年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:彼の記念碑的著作"ローマ史
テオドール・モムゼン(Theodor Mommsen、1817年11月30日 - 1903年11月1日[1])は、ドイツの歴史家、法学者、政治家。19世紀を代表する知識人で、古代ローマ史を専門とし、ローマ帝国史の編纂などの仕事がある。ゲーテの信奉者で[2]、ビスマルクの政敵としても知られる[3]。
経歴1848年の若き日のモムゼン(中央)
シュレースヴィヒ(当時デンマークと同君連合)生まれ。父はプロテスタントの牧師で、1838年から5年間、キール大学で法律と言語学を学び、1843年にローマ法で博士号相当の学位を取得。翌年から3年間、デンマーク政府の出資を受けフランス、イタリアを旅行した。帰国後1848年革命が勃発し参加。1851年に教授職を解任され国外へ脱出した。1852年チューリッヒ大学でローマ法の教授に就任[1]。
1854年からブレスラウ大学教授、1861年ベルリン大学の古代史教授に就任[4]。1853年にプロイセン科学アカデミー通信会員、1858年には正式会員になった[5]。
1902年[1]、歴史家として文筆によりノーベル文学賞(第2回)を受賞。
政治活動衷心から、そして全力を尽くして私は常に政治的な人間であったし、また一市民でありたいと望んだのである。私たちドイツ民族においては、それは不可能だったのだが ? テオドール・モムゼン、1899年9月2日に書かれた遺書より[3]
イタリアから帰国した直後に発生した1848年革命が彼に与えた影響は大きかった。1861年にドイツ進歩党員となり、プロイセンで下院議席を得ると(1863-1866年)、「ビスマルク派から憲法を守り抜くこと」を党是に掲げた。1866年に進歩党が分裂すると、国民自由党(1873-1879年)、自由主義連合(ドイツ語版)所属帝国議会議員(1881年)を経て、ビスマルクの貿易政策を批判して告訴され、1884年にドイツ自由思想家党員となった[3]。
ハインリヒ・フォン・トライチュケの反ユダヤ主義に対しては、自由の原則を侵すものとして激しく反対したが、トライチュケは彼のローマ史を絶賛しており、モムゼンもトライチュケの死に際して、その才能を認めていたことを吐露している。また、1891年の学問・芸術分野への国家介入を認める立法に対しては、老年ではあったが自由主義者として戦った。最晩年には「ゲーテ同盟」設立に関わり、ドイツ人の自由と知的活動を脅かすものに対して徹底的に戦い抜くことを宣言し、ドイツ文化を守り抜くことを義務とした[2]。政治家として自由主義を貫いたものの、学問分野におけるほどの指導力は発揮できなかった[6]。
業績と批判ヴロツワフ大学本館1Fにある記念プレート。ノーベル賞受賞者の名前と、最後にフランシス・ベーコンの「知識は力なり」が刻まれている。
モムゼンの業績は、主に以下の三つにわけられる。
『ローマ史(英語版)』の執筆
『ラテン碑文集成(英語版)』(CIL)編纂事業の開始(1854年?現在まで続く)
『ローマの国法』と『ローマの刑法』
エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』が、18世紀イギリスの歴史文学の名作として命脈を保っているのに対し、モムゼンの業績(殊にその『ローマ史』(1854-56年))は、文学的価値に加え、現代の研究においてもなお基本的な重要性を持っている。
モムゼンは、イタリア旅行中にサン・マリノでラテン語碑文研究で著名だったバルトロメオ・ボルゲーシ(英語版)と出会い[1]、当時カンピドリオで行われていた考古資料(碑文、貨幣、パピルス文書)を取り入れる研究に関わり、これらを積極的に利用した。伝世文献史料だけを重視していた従来の歴史学を飛躍的に革新し、彼自身の専門的知識も加えることによって、バルトホルト・ゲオルク・ニーブールを超えたと言われる。しかし一方で、考古学的証言に史料価値を認めなかったことが、後世にまで影響している。また、『ローマ史』の叙述では、例えば古代ローマのパトリキをユンカー、平民を浮浪無産者層などと、当時のプロイセンの現代用語で記述したため、当時の一般読者層からは高く評価され、当時の知識人の必読書ともされたが、その現代性は歴史学界から批判された[7]。
「文献学の第一人者」と呼ばれた彼は『ローマ史』の中で、これまでローマによるイタリア征服とされていたものを、当時のイタリア統一運動を意識してか、イタリック人統一と発想を転換して好評を得た。