テオドール・ホイス
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ドイツ政治家テオドール・ホイスTheodor Heuss

生年月日1884年1月31日
出生地 ドイツ国
ヴュルテンベルク王国
ブラッケンハイム
没年月日 (1963-12-12) 1963年12月12日(79歳没)
死没地 ドイツ連邦共和国
バーデン=ヴュルテンベルク州
シュトゥットガルト
前職ジャーナリスト、
政治学者
所属政党ドイツ自由意志連盟
進歩的人民党
ドイツ民主党
民主人民党
自由民主党
配偶者エリー・ホイス=クナップ (1881~1952)
ドイツ連邦共和国
初代 連邦大統領
内閣第一次アデナウアー内閣
第二次アデナウアー内閣
第三次アデナウアー内閣
在任期間1949年9月13日 - 1959年9月12日
ドイツ連邦共和国
連邦議会議員
選挙区バーデン=ヴュルテンベルク州
在任期間1949年9月7日 - 1949年9月15日
連邦議会議長エーリヒ・ケーラー
ヴュルテンベルク=バーデン州(英語版)
初代文化大臣
内閣マイアー内閣
在任期間1945年9月24日 - 1946年
アメリカ軍政長官ドワイト・D・アイゼンハワー
ドイツ国国会議員
在任期間1924年1930年) - 1928年1933年
国会議長マックス・ヴァルラフ
パウル・レーベ
ヘルマン・ゲーリング
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テオドール・ホイス(ドイツ語: Theodor Heuss, 1884年1月31日 - 1963年12月12日)は、ドイツジャーナリスト政治学者政治家ドイツ連邦共和国西ドイツ)の初代連邦大統領(在職:1949年 - 1959年)を10年間務めた。
経歴
ジャーナリスト若きホイスの肖像画(1905年、アルベルト・ヴァイスゲルバー画)

ブラッケンハイム(現バーデン=ヴュルテンベルク州)の出身。ミュンヘンベルリン経済学政治学歴史学哲学美術史を学ぶ。1905年にミュンヘン大学ルヨ・ブレンターノの指導の下、「ネッカー川沿いハイルブロンにおけるブドウ栽培とブドウ農家の現状」と題する論文で博士号を取得。1905年から1912年まで、ベルリンでフリードリヒ・ナウマンの下で雑誌「Die Hilfe」を発行。1908年にエリー・クナップと結婚し一男をもうける。第一次世界大戦中に同盟国オスマン帝国イスタンブルにある「ドイツ・トルコ友好の家」を設計し、その開所式は1917年にナウマンによって行われている。1912年‐1918年、ハイルブロンで「ネッカー新聞」の編集長。同時にミュンヘンで雑誌「美術展望」の芸術面を担当していた。1920年から1933年まで、ベルリンにあるドイツ政治高等学院で講師を務め、同時に「ドイツ国民」という雑誌を刊行していた(1923‐1926年)。また1918年から1933年まで、ドイツ工作連盟の経理と経営代表委員を務めていた。

ホイスは1903年にリベラル左派の「ドイツ自由意志連盟」に加入。1909年に「進歩的人民党」に替わる。1918年にはドイツ民主党 (DDP) の設立に参加。1919年にベルリン・シェーネベルク区の区議会議員に当選した。1930年にDDPはドイツ国家党 (DStP) に合流する。1924‐1928年と1930‐1933年の間、ホイスはヴァイマール共和政下のドイツ帝国議会の議員であった。ナチスが政権を獲得したのちの1933年3月23日、アドルフ・ヒトラー内閣が提出した全権委任法に、同じ党のエルンスト・レンマー、ラインホルト・マイアーらとともに賛成票を投じた。この法律はナチスの一党独裁を許すことになったので、ホイスのこの行動はのちのちまで批判の対象になったが、ホイス自身は賛成に投じることに反対だったが党議拘束や党内の多数派に同調して賛成票を投じたと説明している。ともあれ法案は可決され、他ならぬこの法に基づいて、その年7月にホイスらナチス以外の党の議席権は抹消された。
戦中・戦後

ナチス政権樹立後もホイスは「Die Hilfe」を発行していたが1936年に発禁され、講師の職も失った。第二次世界大戦中の1941年にはリベラル系の「フランクフルト新聞」に入社して文化政策や歴史に関する文章を発表していたが、1942年にドイツのすべての新聞に対し、ホイスの文章を発禁するヒトラーの指令が下された。しかしその後もホイスは「トーマス・ブラックハイム」などの偽名で文章を書き続け、1942年には偽名でユストゥス・フォン・リービッヒの伝記を出版している。1943年には家族とハイデルベルクに移住し、死を目前にした実業家ローベルト・ボッシュ本人に頼まれてその伝記を執筆していた。第二次世界大戦が終わると、占領軍であるアメリカ軍軍政部によって新聞発行許可を与えられ(戦後最初に許可をもらった3紙のうちの一つ)、それは現在もライン・ネッカー新聞として続いている。

1945年9月24日、彼はアメリカ軍軍政部によりヴュルテンベルク・バーデン州(現在のバーデン・ヴュルテンベルク州北部)の文化大臣に任命され、党友ラインホルト・マイアー率いる全党内閣に入閣した。1946年の州議会選挙で彼らの民主主義人民党 (DVP) は19%の得票しかできず、閣僚ポストが1つしか得られなかったため、ホイスは文化大臣の座をマイアーに譲った。1947年にはホイスらに対して、かつて全権委任法に賛成票を投じた責任を問う委員会が設置され査問を受けた。政治活動の傍らホイスは1946年から翌年までシュトゥットガルト工科大学で歴史を講義していた。1946年から1949年まではDVPの共同設立者として妻と共に州議会議員を務める。1948年3月にはドイツ民主党 (DPD) の全ドイツ地区の共同代表に選出される。1948年にシュトゥットガルト工科大学客員教授に就任。
FDP設立・初代大統領シュトゥットガルトにあるホイス夫妻の墓2マルク硬貨裏面にあしらわれたホイスの肖像(1969年発行)ブラッケンハイムにあるホイス博物館

1948年12月12日、自由民主党 (FDP) の結党大会で西ドイツとベルリンの代表に選出される。彼は西側連合国の占領地域にある全てのリベラル政党の結集を目指した。


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