テオドール・ド・バンヴィル
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テオドール・ド・バンヴィル
Theodore de Banville
ナダールによるテオドール・ド・バンヴィルの肖像写真
誕生エティエンヌ・ジャン・バティスト・クロード・テオドール・フォーラン・ド・バンヴィル(Etienne Jean Baptiste Claude Theodore Faullain de Banville)
(1823-03-14) 1823年3月14日
フランス王国アリエ県ムーラン
死没 (1891-03-13) 1891年3月13日(67歳没)
フランス共和国パリ
墓地モンパルナス墓地
職業作家
言語フランス語
ジャンル戯曲批評
代表作『鍾乳石』
『綱渡りのオード』
『流刑者』
署名
ウィキポータル 文学
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テオドール・ド・バンヴィル(Theodore de Banville, 1823年3月14日 - 1891年3月13日)は、フランス詩人劇作家批評家シャルル=マリ=ルネ・ルコント・ド・リールシャルル・ボードレールと並んで1850年代のフランス詩を牽引し、後に高踏派の先駆者の一人として詩壇に重きをなした。
略歴

テオドール・ド・バンヴィルは1823年アリエ県ムーランに生まれる。幼少時の幸福な体験は後の作品でしばしば振り返られる。

7歳からパリの寄宿舎に入る。病弱なテオドールにとってこの生活は楽なものではなかったようだが、このころ観劇の楽しみを知る。ロマン主義の詩人の作品に出会うのも同時期である。

リセ・ブルボン(現リセ・コンドルセ)ではシャルル・アスリノー、ゴンクール兄弟などの将来の文学者と知り合う。16歳ころから詩作を始める。1840年、パリ大学法学部に登録。当時の文学者志望の若者の例に漏れず卒業はせず。翌年ボードレールの知遇を得る。

1842年、処女詩集『女像柱』を出版。事実上の自費出版であったが、当時の詩壇では一定の評価を受ける。19歳でのデビューはミュッセのそれに匹敵する早さである。

1846年には第二の詩集『鍾乳石』を発表。奇数脚やシャンソンの模倣など、その抒情詩の可能性の模索を続ける。同年、海軍退役軍人であった父死去。生計のため「コルセール・サタン」や「シルエット」等の様々な定期刊行物への寄稿を開始。中には後『綱渡りのオード』に収録される風刺詩もあった。以降も様々な媒体に寄稿するが、1849年から始まった「Dix-Decembre」紙の劇評は彼の詩論・劇論を知ることができる点で重要である。

1851年からは劇作にも着手。1852年末、オデオン座にて『アリストパネスの文芸欄』を上演。バンヴィルの劇で最初に上映された点だけでなく、ルヴュというごく庶民的な演劇ジャンルを詩人が手がけた例として貴重な作品である。1856年には詩集『小オード集』劇『レアンドル』と定期的に作品を発表し続ける。しかし、バンヴィルの1850年代でもっとも重要なのは1857年の『綱渡りのオード』出版であろう。この詩集でバンヴィルは抒情詩と滑稽の合一をめざし、その滑稽さは多く詩句と内容のずれ、あるいは既存のほかの作家のパロディから生まれている。同年、それまで発表した詩集と未刊の詩をまとめた『全詩集1841?1854』を出版。ここで『杯の血』となる詩が初めてまとめられた。1850年代最後の数年、バンヴィルは神経症を病み、ベルビュで療養を余儀なくされる。彼が健康をとりもどすのは、1860年、女優マリー・ドーブラン(ボードレールの恋人だった)と共にニースに滞在してからになる。テオドール・ド・バンヴィル

1861年、パリに戻ったバンヴィルは創作活動を再開。1862年の『紫水晶』、1869年『新綱渡りのオード』として出版される詩を発表。一方で『森のダイアナ』『ネリーヌの悪巧み』など劇作も発表し続ける。1867年には、バンヴィル自身がもっとも評価した詩集『流刑者たち』が出版される。同時期に『第一次高踏派詩集』が発刊。バンヴィルはその中で重要な位置を占める。この時代、バンヴィルはルコント・ド・リールと並んで後続の世代を導く役割を果たしていた。彼の元を訪れた若い詩人は数多いが、その中にはシャルルヴィルから家出してきたアルチュール・ランボーもいた。

普仏戦争、コミューン時もパリから離れず、愛国的な詩を連載しつづけた。これらの詩は、戦後1872年に『プロイセン田園詩』としてまとめられる。同年、実作者による貴重な詩論書『フランス詩小論』を出版。ユゴーを初めとしたロマン主義の詩法を擁護するが、一方でヴェルレーヌ等後続の詩人たちの革新に先駆ける独自の論考も含んでいる書物である。ヴェルレーヌの作品を即座に評価し、『第三次現代高踏派詩集』の編集委員の中でただ一人マラルメの『半獣神の午後』を認めたのはバンヴィルであった。

1870年代を通じて、「ナシオナル」紙にて時評を担当。ルメールからこれまでの作品を全6巻にまとめ、再刊。1875年、エリザベト・ロシュグロスと結婚。義理の息子にあたるジョルジュ・ロシュグロスはバンヴィルの作品の挿絵を担当することが多かった。1878?1879年にもシャルパンティエから『決定版詩集』全3巻を出版するが、実際には死ぬまで手を加え続けている。

1880年代に入ってからは散文作品が増える。コント、ポルトレに寓話など、詩人バンヴィルの重要な一面である。詩作、劇作も衰えを見せず、死後出版の『Dans la fournaise』を含めた3冊の詩集をシャルパンティエから出版。劇作もシャルパンティエ、ルメール社両方で選集を出版した(収録作品は微妙に異なる)。


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