テオドール・キッテルセン
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テオドール・キッテルセン
Theodor Kittelsen
自画像
本名Theodor Severin Kittelsen
誕生日 (1857-04-27) 1857年4月27日
出生地 スウェーデン=ノルウェー
ノルウェー ブラッツベルグ県
クラーゲリョー
死没年1914年1月21日(1914-01-21)(56歳)
死没地 ノルウェー エストフォル県
イェロヤ(ノルウェー語版)
国籍 ノルウェー
芸術分野風景画伝説説話を題材とした画
教育パリの芸術学校
受賞聖オラフ勲章(ノルウェー語版) (1908年)
後援者ディートリヒ・マリア・オール
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テオドール・セヴェリン・キッテルセン (Theodor Severin Kittelsen、1857年4月27日-1914年1月21日)は、ノルウェー画家。ノルウェーで最も人気のある画家の一人である。主に自然を描いた絵画 (風景画)と、伝説説話の絵画、特にノルウェーの伝承に登場する妖精トロールを描いた絵画が代表的な作品である[1]
経歴

テオドール・キッテルセンは、ノルウェー南部ブラッツベルグ県の沿岸の街、クラーゲリョーで生まれる。テオドールの父はテオドールの幼少時に、貧困の中で妻とテオドールを含む8人の子供を残して亡くなっている。このため、テオドールはわずか11歳で時計職人弟子入りしている。17歳の頃、ディートリヒ・マリア・オール (Diderich Maria Aall) が彼の才能を発掘し、クリスチャニア(現在のオスロ)のヴィルヘルム・フォン・ハンノ (Wilhelm von Hanno) の芸術学校で学ぶことになる。更にオールからの潤沢な支援によって、バイエルン王国(現ドイツ)のミュンヘンに留学している。しかし、1879年になるとオールがキッテルセンの支援を行うことができなくなってしまう。このため金銭的に困窮したキッテルセンは、新聞雑誌製図工として働き稼がなければならなかった。

1882年からパリへ留学するための奨学金が付与され、パリで芸術を学んでいる。それから5年後の1887年にノルウェーに戻る。ノルウェーに戻ると、彼はノルウェーの自然から大きなインスピレーションを受ける。ノルウェーに帰ってからの2年間、キッテルセンは彼の姉妹とその夫の住むノルウェー北部のロフォーテン諸島で過ごしている。また、この頃からキッテルセンは描いた絵画に文章をつけるようになった。

テオドール・キッテルセンと家族は、1899年からノルウェー南部のブスケルー県プレストフォス(ノルウェー語版)の近くに家とラウヴリア (Lauvlia) と名付けたアートスタジオでの生活をスタートしている。ここでの活動は、キッテルセンの芸術活動において、最も良いものとなった。この期間中には、ノルウェー民話収集家のペテル・クリスティン・アスビョルンセンとヨルゲン・モー(ノルウェー語版)によって書かれたノルウェー民話集挿絵の仕事を請け負っている。1908年には、ノルウェー王国の聖オラフ勲章(ノルウェー語版)を受章しナイトとなった。しかし、これから間もなく体調を崩すようになり、1910年にはラウヴリアを売却せざるを得なくなった。1911年には、芸術家への給付金も支給されるようになるが、1914年1月14日、ノルウェー南部のエストフォル県モス近くのイェロヤ(ノルウェー語版)で死去した[2]。56歳没。

テオドール・キッテルセンの絵は、ロマン主義とナイーブ・ペインティングの間に分類される。ノルウェーでは、自国の画家として高い尊敬を集め、広く知られている画家である。しかしその一方で、国際的に認められた画家やアーティストに含まれることは少なく、ノルウェー国外ではあまり知られていない画家でもある[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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