テオドール・アイケ
[Wikipedia|▼Menu]

テオドール・アイケ
Theodor Eicke
テオドール・アイケ親衛隊大将
1942年4月20日以降の写真。
生誕1892年10月17日
ドイツ帝国
直轄州エルザス=ロートリンゲン
フーディンゲン(英語版)
死没1943年2月26日
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 オリョール近郊
所属組織

バイエルン陸軍(de)
突撃隊
親衛隊


親衛隊髑髏部隊(SS-TV)

武装親衛隊

第3SS装甲師団「髑髏」


軍歴

1909年‐1919年(バイエルン陸軍)
1928年‐1930年(突撃隊)
1930年‐1943年(親衛隊)


1934年-1939年(親衛隊髑髏部隊)

1939年‐1943年(武装親衛隊)

最終階級下級主計官(バイエルン陸軍)
突撃隊曹長(突撃隊)
親衛隊大将(親衛隊)
指揮 ダッハウ強制収容所
親衛隊髑髏部隊(SS-TV)
第3SS装甲師団「髑髏」
戦闘

第一次世界大戦
第二次世界大戦


西方電撃戦

独ソ戦

バルバロッサ作戦

デミャンスク包囲戦

第三次ハリコフ攻防戦


テンプレートを表示

テオドール・アイケ(ドイツ語: Theodor Eicke, 1892年10月17日 - 1943年2月26日)は、ドイツの軍人。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の戦闘部隊武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。第二次世界大戦において第3SS装甲師団「髑髏」の師団長を務めた。また戦前にはナチスの全強制収容所を監督する強制収容所監視官の地位にあった。親衛隊における最終階級は親衛隊大将及び武装親衛隊大将(SS-Obergruppenfuhrer und General der Waffen-SS)。
生涯
ナチ党入党まで
生い立ち

ドイツ帝国直轄州エルザス=ロートリンゲン(Reichsland Elsas-Lothringen)のうちロートリンゲン地方(現在のフランス領ロレーヌ)のフーディンゲン (Hudingen, 現在のアムポン、Hampont) で生まれた。都市ザルツブルク(現在のシャトー・サラン、Chateau-Salins)に近い場所である。父はハインリヒ・アイケ(Heinrich Eicke)。母はその妻ジョセフィーナ(Josefina)。11人兄弟の末っ子だった。父ハインリヒは駅長であったが、家庭は中産階級より下のレベルだった。

アイケはフーディンゲンの小学校(Volkschule)を出た後、実科学校(Realschule)へ進んだが、17歳の時にこの学校を辞めた。
第一次世界大戦

1909年から1913年にかけてランダウプファルツを基地にしていたバイエルン王国軍第23歩兵連隊に志願兵として入隊した。1913年から1914年にかけてはバイエルン第3騎兵連隊に配属され、主計官見習(Zahlmeister Aspirant)になった。

1914年に第一次世界大戦が始まったのち、1914年から1916年にかけてバイエルン第22歩兵連隊、さらに1916年から1917年にかけてバイエルン第2歩兵砲兵連隊、1917年から1919年にかけて第2バイエルン軍団第6機関銃中隊に配属された。主計官としての勤務であり、1916年に下級主計官(Unterzahlmeister)に昇進した。また、大戦中に二級鉄十字章を授与されている。

大戦初期の1914年12月26日に義姉妹のベルタ・シュヴェーベル(Bertha Schwebel)と結婚した。
第一次大戦後

戦後、1919年3月1日に除隊したが、次の仕事が見つからず、1919年3月から9月にかけてイルメナウの単科大学(Hochschule)で工学技術を学んだ。しかし経済的理由と過激な政治活動のために大学を追われた。

アイケは警察官を目指し、1919年12月から1920年7月にかけてイルメナウ警察の情報関係の仕事の補助員をし、1920年7月から1921年にかけてコトブスの都市警察学校(Schutzpolizeischule)に在学し、警部(Polizeikommissar)の試験にも「優」の成績で合格していたが、ヴァイマル共和政打倒を目指す過激な政治的デモに参加したため、警察当局から任官を拒否された。続いてヴァイマールの都市警察やゾーラウ(Sorau)の刑事警察などでも働いたが、いずれも同様の理由で短期間で解雇されている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:30 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef