テオドール・アイケ
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テオドール・アイケ
Theodor Eicke
テオドール・アイケ親衛隊大将
1942年4月20日以降の写真。
生誕1892年10月17日
ドイツ帝国
直轄州エルザス=ロートリンゲン
フーディンゲン(英語版)
死没1943年2月26日
ソビエト連邦
ロシア オリョール近郊
所属組織

バイエルン陸軍(de)
突撃隊
親衛隊


親衛隊髑髏部隊(SS-TV)

武装親衛隊

第3SS装甲師団「髑髏」


軍歴

1909年‐1919年(バイエルン陸軍)
1928年‐1930年(突撃隊)
1930年‐1943年(親衛隊)


1934年-1939年(親衛隊髑髏部隊)

1939年‐1943年(武装親衛隊)

最終階級下級主計官(バイエルン陸軍)
突撃隊曹長(突撃隊)
親衛隊大将(親衛隊)
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テオドール・アイケ(Theodor Eicke、1892年10月17日 - 1943年2月26日)は、ドイツの軍人。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の組織親衛隊(SS)の戦闘部隊武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。第二次世界大戦において第3SS装甲師団「髑髏」の師団長を務めた。また戦前にはナチスの全強制収容所を監督する強制収容所監視官の地位にあった。親衛隊における最終階級は親衛隊大将及び武装親衛隊大将(SS-Obergruppenfuhrer und General der Waffen-SS)。目次

1 生涯

1.1 ナチ党入党まで

1.1.1 生い立ち

1.1.2 第一次世界大戦

1.1.3 第一次大戦後


1.2 ナチ党・親衛隊

1.2.1 長いナイフの夜

1.2.2 親衛隊髑髏部隊指揮官

1.2.3 武装SS「髑髏」師団長



2 人物

3 キャリア

3.1 階級

3.2 受章


4 参考文献

4.1 出典


5 外部リンク

生涯
ナチ党入党まで
生い立ち

ドイツ帝国直轄州エルザス=ロートリンゲン(Reichsland Elsas-Lothringen)のうちロートリンゲン地方(現在のフランス領ロレーヌ)のフーディンゲン (Hudingen, 現在のアムポン、Hampont) で生まれた。都市ザルツブルク(現在のシャトー・サラン、Chateau-Salins)に近い場所である。父はハインリヒ・アイケ(Heinrich Eicke)。母はその妻ジョセフィーナ(Josefina)。11人兄弟の末っ子だった。父ハインリヒは駅長であったが、家庭は中産階級より下のレベルだった。

アイケはフーディンゲンの小学校(Volkschule)を出た後、実科学校(Realschule)へ進んだが、17歳の時にこの学校を辞めた。
第一次世界大戦

1909年から1913年にかけてランダウプファルツを基地にしていたバイエルン王国軍第23歩兵連隊に志願兵として入隊した。1913年から1914年にかけてはバイエルン第3騎兵連隊に配属され、主計官見習(Zahlmeister Aspirant)になった。

1914年に第一次世界大戦が始まったのち、1914年から1916年にかけてバイエルン第22歩兵連隊、さらに1916年から1917年にかけてバイエルン第2歩兵砲兵連隊、1917年から1919年にかけて第2バイエルン軍団第6機関銃中隊に配属された。主計官としての勤務であり、1916年に下級主計官(Unterzahlmeister)に昇進した。また、大戦中に二級鉄十字章を授与されている。

大戦初期の1914年12月26日に義姉妹のベルタ・シュヴェーベル(Bertha Schwebel)と結婚した。
第一次大戦後

戦後、1919年3月1日に除隊したが、次の仕事が見つからず、1919年3月から9月にかけてイルメナウの単科大学(Hochschule)で工学技術を学んだ。しかし経済的理由と過激な政治活動のために大学を追われた。

アイケは警察官を目指し、1919年12月から1920年7月にかけてイルメナウ警察の情報関係の仕事の補助員をし、1920年7月から1921年にかけてコトブスの都市警察学校(Schutzpolizeischule)に在学し、警部(Polizeikommissar)の試験にも「優」の成績で合格していたが、ヴァイマル共和政打倒を目指す過激な政治的デモに参加したため、警察当局から任官を拒否された。続いてヴァイマールの都市警察やゾーラウ(Sorau)の刑事警察などでも働いたが、いずれも同様の理由で短期間で解雇されている。この後、ルートヴィヒスハーフェン警察で1921年から1923年まで働いたが、やはり反ヴァイマル共和制活動を理由にして解雇されている。

警察を諦めたアイケは、1923年2月1日からルートヴィヒスハーフェンのIG・ファルベン社に入社した。この会社では早々に出世し、1925年には同社の情報調査部の部長代理に就任し、産業スパイの摘発の仕事にあたった。アイケが警察に逮捕される1932年3月6日までこの職を務めている。
ナチ党・親衛隊

1928年8月2日に突撃隊(SA)に入隊した。続いて12月1日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党している(党員番号114,901)。1930年7月29日に突撃隊から親衛隊へ移籍した(親衛隊隊員番号2,921)。しかし1932年3月6日、アイケは政敵に対するテロを狙って爆弾を製造したとされて警察に逮捕された。7月7日にバイエルンの裁判所から二年の懲役刑判決を受けたが、バイエルン法相フランツ・ギュルトナーの介入があり、仮釈放されてイタリアへと逃れた。

ナチ党政権誕生後の1933年3月にドイツへ戻ったが、折り合いの悪かったプファルツ大管区指導者ヨーゼフ・ビュルケルの命令で逮捕され、3ヶ月間ほどヴュルツブルクの精神病院へ送られることとなった。しかし1933年6月末に親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが病院から彼を救い出し、ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所の所長職を彼に与えた。
長いナイフの夜

1934年6月30日に長いナイフの夜事件の粛清で突撃隊 (SA) 幕僚長エルンスト・レームが逮捕されてミュンヘンのシュターデルハイム刑務所(Justizvollzugsanstalt Munchen in der Stadelheimer Strase)に投獄された。7月1日、総統アドルフ・ヒトラーはダッハウの所長だったアイケに対してレームの処刑を命じた。アイケは部下のダッハウ副所長ミヒャエル・リッペルトを引き連れて、シュターデルハイム刑務所のレームの独房を訪れ、ヒトラーの指示に従って「レーム逮捕」を報じるナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』紙と自決用の一発だけ弾の入った拳銃を置いて独房から立ち去った。


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