この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の姓)はンゲマ、第二姓(母方の姓)はンバソゴです。(Template:スペイン語圏の姓名)
テオドロ・オビアン・ンゲマ・ンバソゴ
Teodoro Obiang Nguema Mbasogo
2014年撮影
赤道ギニア共和国
第2代 大統領
任期1979年8月3日 –
アフリカ連合
第9代 総会議長
任期2011年1月31日 – 2012年1月29日
出生 (1942-06-05) 1942年6月5日(79歳)
スペイン領ギニア、アコアカン
政党赤道ギニア民主党
配偶者コンスタンシア・マンゲ・デ・オビアン
テオドロ・オビアン・ンゲマ・ムバソゴ(Teodoro Obiang Nguema Mbasogo, 1942年6月5日 - )は、赤道ギニアの政治家。現在、同国大統領(第2代)。赤道ギニア民主党の指導者。名前のカタカナ表記は、ンゲマはヌゲマ、ムバソゴはンバソゴとも表記する。アフリカ連合総会議長(第9代)などを歴任した。
経歴 1982年のンゲマ
スペインの士官学校で学び、母国で大佐になった。1979年8月、叔父であるフランシスコ・マシアス・ンゲマの独裁政権をクーデターで倒し、軍事政権を打ち立て、自らその議長として国家元首(革命軍事評議会議長、のちに最高軍事評議会議長)に就任した(1982年10月には大統領就任)。政権奪取後は事実上の独裁体制をしき、1982年に民政移管などを定めた新憲法を採択させたが、クーデター未遂がたびたび発生した。
1987年に自らの一党独裁の政権党として赤道ギニア民主党(以下PDGE)結成。民主化を要求するスペイン、フランス、アメリカ合衆国の圧力を受け1991年11月、複数政党制を認めた新憲法が国民投票で承認されたが、大統領の免責規定などに野党勢力は反発して1993年の総選挙は野党の大半がボイコットする中、PDGEが大勝。1996年2月の大統領選も野党はボイコットし、ンゲマが得票率99%で4選、2002年12月で5選、2009年11月は得票率95.37%で6選した[1]。2011年1月にはアフリカ連合総会議長に就任、1年間の任期を務めた。
2016年の大統領選挙は11月に行われる予定であったが、何の説明もないまま4月24日に投票が繰り上げられた。暫定結果では得票率93.7%で、事前の予測どおりの圧勝であった[1][2]。2016年時点でアフリカ最長の政権となっており[1]、君主を除けば世界最長の政権を率いる人物である。
2021年2月15日、中国のシノファームCOVID-19ワクチン(BBIBP-CorV)を接種し、「中国は赤道ギニアにとって最高の友人であるだけでなく、アフリカにとって最高の友人だ」と述べた[3]。
出典^ a b c ⇒“アフリカ最長政権、また圧勝へ=赤道ギニアで大統領選”. 時事通信. (2016年4月25日). ⇒http://www.jiji.com/jc/article?k=2016042500335&g=int 2016年4月29日閲覧。
^ ⇒“アフリカ最長政権継続=権力36年の現職圧勝?赤道ギニア大統領選”. AFPBB News (フランス通信社). (2016年4月29日). ⇒http://www.afpbb.com/articles/-/3085758 2016年4月30日閲覧。
^ “中国のワクチンが各国へ 発展途上国を支援”
公職
先代:
フランシスコ・マシアス・ンゲマ 赤道ギニア共和国大統領
第2代:1979 -次代:
(現職)
外交職
先代:
ビング・ワ・ムタリカアフリカ連合総会議長
第9代:2011 - 2012次代:
ヤイ・ボニ
表
話
編
歴
アフリカ統一機構(OUA)・アフリカ連合(AU)の総会議長
アフリカ統一機構
(1963 - 2002)
ハイレ・セラシエ1世
ガマール・アブドゥル=ナーセル
クワメ・エンクルマ
ジョセフ・アンクラー(英語版)
ハイレ・セラシエ1世
モブツ・セセ・セコ
フアリ・ブメディエン(英語版)
アマドゥ・アヒジョ
ケネス・カウンダ
モクタル・ウルド・ダッダ
ハサン2世
ヤクブ・ゴウォン
モハメド・シアド・バーレ
イディ・アミン
シウサガル・ラングーラム
オマール・ボンゴ・オンディンバ
モハメド・アン=ヌメイリ
ウィリアム・R・トルバート
レオポール・セダール・サンゴール1