テオドロス2世_(エチオピア皇帝)
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テオドロス2世
?????
エチオピア皇帝

在位1855年2月11日 - 1868年4月13日
戴冠式1855年2月11日

全名カッサ・ハイル・ギヨルギス
出生1818年
エチオピア帝国、クワラ
死去1868年4月13日
エチオピア帝国、アムバ・マリアム
埋葬
エチオピア、アムバ・マリアム、メドハネ・アレム教会
配偶者Tewabech Ali
 Tiruwork Wube
家名テオドロス家
王朝ソロモン朝
父親ハイレ・ギヨルギス・ウォルデ・ギヨルギス
母親Woizero Atitegeb Wondbewossen
宗教キリスト教エチオピア正教会
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テオドロス2世(???? ????? , 1818年 - 1868年4月13日)は、エチオピア帝国皇帝(在位:1855年 - 1868年)。即位前の名はカッサ・ハイル。戦国時代さながらの「ラス達の時代(英語版)」を終わらせた「中興の祖」とされ、強力な国家を作るために近代化政策を推進した。先代は サハレ・デンゲル。
略歴

1818年 - 北部の有力な一族に生まれ、
ゴンダルで育ち修道院で教育を受けた後、盗賊となる。

1847年 - 豪族の地位を与えられ数々の戦闘に勝利する。

1852年 - 北部州を制圧。

1855年 - 中部エチオピアの主なライバルをほとんど打ち破る。下克上によって主君を失脚させ皇帝に即位。「ネグサ・ナガスト(諸王の王)」の権威を復活させる。即位後はショア征服などで自領を拡張し、エジプトオスマン帝国と対立していく。

1857年 - イギリスと接触し友好関係を結ぶ。

1860年 - イギリス人領事と海軍将校がエチオピア人によって暗殺され、これ以降イギリスとの関係が対オスマン帝国政策の違いもあり悪化する。

1868年 - イギリスの派遣した大規模な遠征隊と戦争(マグダラの戦い)になるが惨敗する。この結果にショックを受け自殺した。

画像

ライオンに囲まれるテオドロス2世

青ナイル川でのテオドロス2世

テオドロス2世の十字架

テオドロス2世の鍛えた軍隊

テオドロス2世のシール

テオドロス2世を脅すイギリスを描いた風刺画

自殺したテオドロス2世を発見するイギリス兵

関連項目

エチオピアの国家元首の一覧

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、テオドロス2世 (エチオピア皇帝)に関連するメディアがあります。

Tewodros II at the Imperial Ethiopia Homepages

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サヴォイア朝

ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世1936-1943注
ソロモン朝

ハイレ・セラシエ1世1941-1974
注:1941年に東アフリカ帝国はイギリス占領下となったが、連合軍との休戦まで正式に退位せず帝位を主張している。1943年11月27日に退位を宣言。
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