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テオドルス・ファン・ゴッホ
テオドルス・ファン・ゴッホ(Theodorus van Gogh、1857年5月1日 - 1891年1月25日)は、オランダ出身の画商。画家であるフィンセント・ファン・ゴッホの弟。
テオ(Theo)の愛称で知られる。フランスで活動したこともあって、名前はフランス風にテオドール(Theodore)と呼ばれることもある。
生涯1872年頃(15歳頃)のテオ。長年フィンセントの写真とされてきたが、後にテオの写真と判明[1]。
現在の北ブラバント州、アイントホーフェンからやや東部にあるズンデルト(ニューネン付近)に生まれる。祖父は聖職者フィンセント・ファン・ゴッホ1世(1789年 - 1874年)、父はオランダ改革派教会の牧師テオドルス・ファン・ゴッホ1世(通称ドルス、1822年 - 1885年)、母はハーグ王室御用製本師の娘アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年 - 1907年)。妻はヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー、1862年 - 1925年)、息子はエンジニアのフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。映画監督のテオ・ファン・ゴッホは曾孫である。
画商グーピル商会(後にブッソ・ヴァラドン商会と改称。テオの入社前年まで、伯父フィンセント・ファン・ゴッホ2世(通称セント)が経営陣に参加していた)に勤め、パリのモンマルトル大通り店の経営を任された[2]。親兄弟と確執関係にあったフィンセントの唯一の理解者で、兄に生活費を援助するなどして支えた人物であった。1880年以降、テオが経済的に援助し続けたので、フィンセントは絵画に専念することが可能になった。
1890年7月29日にフィンセントがパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズで亡くなり、その死を大いに嘆き、テオ自身はもともと病弱だったが、兄の死をきっかけに徐々に衰弱し、オランダに帰国し、翌1891年、兄の後を追うようにユトレヒトの精神病院で死去した。33歳。
妻ヨーはテオの死後、画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルク
(英語版)(1873年 - 1912年)と再婚したが、1914年4月、テオの遺骨をフランスのオーヴェル=シュル=オワーズにあるフィンセントの墓の隣に改葬し、フィンセントとテオの墓石が並ぶことになった。夫人と息子フィンセントは長年かけゴッホ書簡[3]の編さん・出版を行った。テオ(右)とファン・ゴッホの墓テオの肖像(1887年、ファン・ゴッホ美術館蔵)
表
話
編
歴
フィンセント・ファン・ゴッホ
概要
作品一覧
模写作品一覧
手紙
ポスト印象派
親族
アンナ・コルネリア・カルベントゥス(母)
テオドルス・ファン・ゴッホ(テオ、弟)
ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ヨー、テオの妻)
ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(ヴィル、妹)
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(テオとヨーの子)
テオ・ファン・ゴッホ(弟テオの末裔)
アントン・モーヴ(従姉妹の夫)
友人・知人
アントン・ファン・ラッパルト
ポール・ゴーギャン
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
エミール・ベルナール
ジョン・ピーター・ラッセル
ウジェーヌ・ボック
アンナ・ボック
ポール・ガシェ
作品
人物画
自画像
坊主としての自画像
包帯をしてパイプをくわえた自画像
ジャガイモを食べる人々
カフェ・タンブランの女
タンギー爺さん
ラ・ムスメ
郵便夫ジョゼフ・ルーラン
パシアンス・エスカリエの肖像
ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女
アルルの女 (ジヌー夫人)
医師ガシェの肖像
悲しむ老人
風景画
アルルの跳ね橋
夜のカフェ
夜のカフェテラス
黄色い家
赤い葡萄畑
星月夜
オリーブの林
糸杉と星の見える道
春のヌエネンの牧師館の庭
ドービニーの庭
オーヴェルの教会
カラスのいる麦畑
夜の白い家
モンマジュールの夕暮れ
ローヌ川の星月夜
静物画
ひまわり
ファン・ゴッホの椅子
ゴーギャンの肘掛け椅子
ファンゴッホの寝室
ばら
アイリス
花咲くアーモンドの木の枝
主要所蔵美術館
ゴッホ美術館
クレラー・ミュラー美術館
オルセー美術館
ニューヨーク近代美術館
関連作品
炎の人ゴッホ
ゴッホ (映画)
さよならソルシエ
ゴッホ 最期の手紙
リボルバー ?誰が【ゴッホ】を撃ち抜いたんだ??
永遠の門 ゴッホの見た未来
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