テオドリック_(東ゴート王)
[Wikipedia|▼Menu]

テオドリック
Theodoric
東ゴート国王
イタリア王
テオドリックの硬貨
在位東ゴート王:471年[1][2][3]- 526年
イタリア王:493年 - 526年

出生454年

死去526年8月30日

埋葬ラヴェンナテオドリック廟
配偶者アウドフレダ
子女ティウディゴート
オストロゴート
アマラスンタ
家名アマル家
父親ティウディミール
母親エレリエヴァ[4]
テンプレートを表示

テオドリック(Theodoric、ゴート語: ??????????、454年 - 526年8月30日)は、東ローマ帝国軍人および政治家484年執政官ローマ帝国副帝としてローマ帝国の西半分を統治した[5]。また、497年イタリア王の称号を認められ、東ゴート王国を成立させた[6]。表記は他にテオデリック(Theoderic, Theoderik)、テオドリクス(: Theodoricus)、 テオドーリコ(: Teodorico)など。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。
生涯テオドリック大王のブロンズ像。(正面)
ペーター・フィッシャー (父)(英語版)作(1513年)。インスブルック宮廷教会(英語版)所蔵。
東ローマ帝国の軍人として

テオドリックは454年ゴート人の有力者の一人ティウディミールの子として生まれた。弟にティウディムント(ポルトガル語版)がいる。

461年頃より東ローマ帝国コンスタンティノープルの宮廷へ人質として送られ[7]、東ローマ帝国の実質的な支配者だったアラン人の将軍アスパルの下で教育を受けた。469年にボリア川の戦い(英語版)でパンノニアのゴート王の一人ウァラメールが死亡すると、皇帝レオ1世はテオドリックをウァラメールの代わりとしてスラヴォニアの守備隊へ配属した。テオドリックは470年にババイ(ポルトガル語版)に率いられたサルマタイ人との戦いに勝利し、テオドリックの下で戦った6000人の従士から王として推戴された[8]。これは父ティウディミールが率いる集団とは全く異なる集団においての推戴だった[9][注 1]

471年、東ローマ帝国の実質的な支配者でテオドリックの師でもあった将軍アスパルが、皇帝レオ1世とイサウリア人(ドイツ語版、ハンガリー語版、オランダ語版)の族長ゼノンによって殺害された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:119 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef