テオス
Teos古代ギリシア語: Τ?ω?
テオスの劇場跡
トルコにおける位置
別名テオ (Teo)
所在地 トルコ イズミル県シアジク
地域イオニア
座標北緯38度10分38秒 東経26度47分06秒 / 北緯38.17722度 東経26.78500度 / 38.17722; 26.78500
テオス(古代ギリシア語: Τ?ω?、Teos)、ないし、テオ(Teo)は、イオニア地方沿岸部のキュトリウム (Chytrium) とミョネスス (Myonnesus) というふたつの半島の間に位置していた古代ギリシアの都市。ボイオーティアのオルコメノス(英語版)から来たミニュエス人(英語版)や、イオニア人、ボイオーティア人らによって創建されたといわれるが、それがいつだったのかは分かっていない。テオスは、イオニア同盟を結成した12都市のひとつであった。この都市は、地峡を成す低い丘陵地に位置していた。遺跡は、トルコのイズミル県セフェリヒサール(英語版)地区にある、現代の町シアジク (S??ac?k) の南方に位置している。 パウサニアスは,テッサリア王アイオロスの子でボイオーティア王であったアタマースの子孫で、同じくアタマースと称した指導者が、オルコメノス
目次
1 歴史
2 遺跡の現状
3 脚注
4 外部リンク
歴史
2カ所の良港を擁したテオスの繁栄は、紀元前540年ころにキュロス2世がリュディアとイオニアに侵攻するまで続いた[2]。テオスの人びとは、トラキアのアブデラ[2]や、ケルチ海峡のアジア側に位置したファナゴレイア(英語版)といった、海を隔てて新たに創建された植民都市へと退去することが賢明だと考えた。港は後に、アンティゴノス1世が復興することとなった。ローマ帝国時代には、この都市はワイン、劇場、ディオニューソスの神殿などによって知られていた。これらの施設は、低い丘の上に位置し6世紀までに城塞化されたアクロポリスの周辺に配置されていた。当時のテオスの港に近い小さな岩壁であるテクタス (Tekta?) 付近で発見された難船は、紀元前6世紀から紀元前4世紀にかけての古典古代に遡るものであり、当時、エーゲ海諸島の東部の島々と海を介しての交易が行なわれていたことが示唆されている。
ヘロドトスは、当時の各都市の方言に基づいて4つのグループを定義したが、テオスは、ギリシア語イオニア方言の中のリュディア方言グループの一員とされた。