ティムール・メリク_(ジョチ家)
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この項目では、ジョチ・ウルスハーンについて説明しています。ホラズム・シャー朝の将については「ティムール・メリク (ホラズム・シャー朝)」をご覧ください。

テムル・ベク(Temur beg、? - 1378年)は、ジョチ・ウルスハン1377年 - 1378年)。ペルシア語/チャガタイ語史料では、テムル・ハン(????? ???/T?m?r Kh?n)、テムル・ベク(????? ???/T?m?r B?k)、テムル・マリク・オグラン(????? ??? ??????/T?m?r Malik ?ghl?n)と様々な表記がなされるが、ロシア語史料では「テミル・ベクブラン(Temir Bekbulan)=テムル・ベク・オグラン(Temur beg ulan)の転訛」と表記されることから、「テムル・ベク」が正しい名前と考えられている[1]
概要

ジョチの十三男トカ・テムルの末裔であるが、彼の出自については依拠する資料によって2つの説がある。トカ・テムルの息子たちのうち、キン・テムルの子アバイの子ノムカンを祖父とし、クトルク・テムルを父であるとする説[2]、あるいはキン・テムルではなくキン・テムルの兄ウルン・テムルの後裔であるオロスの子でトクタキヤの弟とする説である[3]15世紀初頭のシーラーズの歴史家ムイーヌッディーン・ナタンズィーの『ムイーン史選(Muntakhab al-Taw?r?kh-i Mu??n?)』によると、「飲酒に耽って常に酩酊し、政務を放棄した」人物だったという[4]

1376年から1377年にかけてのティムール攻撃に従軍した際、脚を負傷した記録が残る[4]。即位後にハンの地位を欲するトクタミシュと交戦し、一度は勝利するが、部下たちは泥酔して昼間から眠っていた彼に愛想を尽かしてトクタミシュの側に寝返った[4]。1378年にカラタルの戦いでトクタミシュに敗れて戦死し、王位を奪われた。
トカ・テムル系ノムカン王家

ジョチ(Jo?i >朮赤/zhuchi,???? ???/j?ch? kh?n)

トカ・テムル(Toqa temur >???? ?????/t?q? t?m?r)

キン・テムル(Kin temur >??? ?????/k?n t?m?r)

アバイ(Abai >????/ab?y)

ノムカン(Nomuqan >??????/n?muq?n)

クトルク・テムル(Qutluq temur >???? ?????/qutluq t?m?r)

テムル・ベク・ハン(Temur beg qan >????? ??? ???/t?m?r b?k kh?n)

テムル・クトルク・ハン(Temur qutluq qan >????? ???? ???/t?m?r qutluq kh?n)

ボラト・ハン(Bolad qan >?????/b?l?d)

テムル・ハン(Temur qan >????? ???/t?m?r kh?n)

クチュク・ムハンマド(Ku?uk mu?ammad qan >????? ????/k?ch?k mu?ammad)

マフムード・ハン(Ma?m?d qan >????? ???/ma?m?d kh?n)⇒アストラハン・ハン国

アフマド・ハン(A?mad qan >???? ???/a?mad kh?n)⇒大オルダ





クトル・ベク(Qutlu beg >????? ???/q?tl? b?k)

シャディ・ベク・ハン(?adi beg qan >???? ??? ???/sh?d? b?k kh?n)








脚注^ 赤坂2016,246-247頁
^ ノムガンの子テムル・クトルクの子として、『高貴系譜』にはテムル・ハン ????? ??? T?m?r Kh?n、『勝利の書なる選ばれたる諸史』(Taw?r?kh-i Guz?da-yi Nus.rat N?ma)ではテムル・ベク ????? ??? T?m?r B?k と記されている(赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』p.469)。赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』収録の系譜p.47(ジュチ裔系図 トカ=テムル裔 ノムカン裔), p.76(同 トカ=テムル裔 オロス裔) 赤坂恒明はこのテムル・メリクをオロスの息子のひとりとする資料は誤っており、『高貴系譜』などに書かれているキンテムル家アバイ裔とする情報の方が正しいとしている。
^ 川口「キプチャク草原とロシア」『岩波講座 世界歴史11―中央ユーラシアの統合』、291頁。シャラフッディーン・アリー・ヤズディーの『勝利の書』(?afar N?ma)序章において「キプチャク草原を統治したハンたち」が初代のジョチから「第三十二、ムハンマド・ハン」(カザン・ハン国の初代ウルグ・ムハンマド)まで列挙されているが、そのうち、「第二十、オロス・ハン」「第二十一、トクタキヤ。オロス・ハンの子息」に続いて「第二十二、テムル・メリク。オロス・ハンの子息」と書かれている。(赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』 p.294)
^ a b c S.G.クシャルトゥルヌイ、T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、72頁

参考文献

川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『
岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』収録, 岩波書店, 1997年11月)


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