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ティムールの征服戦争(ティムールのせいふくせんそう)では、1370年から1405年までのティムールの征服事業について解説する。モンゴル帝国再興を目指してティムールは中央アジア、トルキスタン、ペルシア、イラク、シリア、南ロシア、インドへの征服戦争に生涯を費やし一大帝国を築く。これはユーラシア規模の最後の征服戦争であった。 東西に分裂したチャガタイ・ウルスはトゥグルク・ティムールによって再統一された。そのトゥグルク・ティムールの許で頭角を現わしてきたのが、バルラス部出身のモンゴル没落貴族ティムールであった。 ティムールはやがて自立を目指すようになり、モグーリスタン・ハン国やアミール・フサインとの抗争の結果、1370年に覇権を確立してティムール朝が成立する。この時、ティムールはチンギス家出身のソユルガトミシュをハーンに推戴して、自身はハーンの婿(キュレゲン)という地位に甘んじた。これは当時のユーラシアに行き渡っていたチンギス統原理に配慮したものである。 ティムールはモグーリスタンとホラズムに遠征を繰り返し、また、ジョチ・ウルス内部での抗争に敗れたトクタミシュを支援して彼をハーン位に就けた。北方の安全を確保したティムールはフレグ・ウルスの獲得を目指してペルシアに軍を進めて、ジャライル朝を始めとする同地の諸王朝を制圧・服属させた。ところが、トクタミシュが本国に侵攻したのを受けて、その成果を放棄する形で1388年に一旦帰国する。そしてトクタミシュに対してキプチャク草原に軍を進めて勝利を収めた。 その後、ティムールは以前に放棄をせざるを得なかったフレグ領の回復を目指して5年戦役を開始し、ジャライル朝のスルタンを駆逐してバグダードを制圧する。一方、ティムールに敗れたトクタミシュは復讐の期を伺い、マムルーク朝を始めとするイスラム諸国を糾合して対ティムール同盟を結成する。反ティムール同盟に対してティムールは再びキプチャク草原に軍を進めてサライを占領・破壊する。1396年にはインドのトゥグルク朝に侵攻して、デリーから莫大な財宝、職人、戦象を奪い去って帰還した。 インドから帰還したティムールは反ティムール同盟に止めを刺すために、1400年にシリアに軍を進めてダマスカスを破壊するが、この際にイブン・ハルドゥーンと会見している。1402年にはオスマン帝国をアンカラの戦いで撃滅してスルタン・バヤズィト1世雷帝を捕虜とする。 モンゴル帝国の西方を征服したティムールは帝国再現の総仕上げとして旧大元ウルス(元)領に向けて軍を進めるが1405年に死去し、遠征も打ち切られた。 チンギス・カンによって建国されたモンゴル帝国は本宗家にあたる大元ウルスの許で緩やかな連合体となりユーラシア大陸はパクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)と言うべき空前の平和と繁栄を享受することになる。しかし、それも14世紀の半ばに入ると地球規模の天災(ペスト)により帝国は崩壊の道を進んでいくことになる。本家の大元ウルスではハーンを巡る権力闘争、宮廷の乱費や紙幣の乱発の結果、政治は乱れ、農民の反乱(紅巾の乱)が勃発して、朱元璋が明を建国し、1368年に大都を占領する。トゴン・テムル以下大元の宮廷はモンゴル高原に帰還して、その勢力は北元と呼ばれた。 西方の諸ハーン国も似た状況であった。ペルシアを支配したフレグ・ウルスでは1354年に最後のチンギス家の人物が死に絶えて崩壊し、その貴下に置かれていたモンゴル・トルコ貴族が各地に勢力を築き、群雄割拠とも言える状況であった。
概要
背景