ティプー・スルターン
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マイソール王
ティプー・スルターン
在位1797年(1786年) - 1799年
別号サルヴァーディカーリー
ダラヴァーイー
スルターン
パードシャー
ワッラーー・カドル
ナシーブ・ウッダウラ
全名ファトフ・アリー・ハーン
出生1750年頃
マイソール王国、デーヴァナハッリ
(ユースファーバード)
死去1799年5月4日
マイソール王国、シュリーランガパトナ
埋葬シュリーランガパトナ、ラール・バーグ
ティプー・スルターン[1](ウルドゥー語: ???? ?????, カンナダ語: ?????? ????????, テルグ語: ?????? ????????, タミル語: ?????? ????????, マラヤーラム語: ?????? ????????, 英語: Tipu Sultan, 1749年以降 1753年以前 - 1799年5月4日)は、南インドのマイソール王国の軍総司令官(ダラヴァーイー)、首席大臣(サルヴァーディカーリー)、君主(スルターン、在位:1786年あるいは1797年 - 1799年)。王国のイスラーム政権マイソール・スルターン朝の支配者(在位:1782年 - 1799年)。ナワーブ・ティプー・スルターン・バハードゥル(Nawab Tipu Sultan Bahadur)とも呼ばれる。
18世紀にイギリスがインドを侵略する中、ティプー・スルターンは南インドにおいて反英闘争にその一生を費やし、「マイソールの虎(Tiger of Mysore)」と畏怖された。その治世、1786年に自らパードシャーの称号を称し、1797年にはヒンドゥー王朝のオデヤ朝を廃するなど、イスラームの正統君主を意識した行動をとった。また、彼はイギリスに対抗するため、オスマン帝国やフランスといった諸外国とも連携を取るなど、世界に対しても非常に幅広い目を持った人物でもあった。
1799年、ティプー・スルターンは第四次マイソール戦争において、最後までイギリスに妥協することなく戦い、王都シュリーランガパトナの総攻撃により死亡した。死後、彼に廃されたヒンドゥーのオデヤ朝が復活し、クリシュナ・ラージャ3世がその後継となった[2]。
生涯
幼少期・青年期ハイダル・アリー
1750年頃、マイソール王国のムスリム軍人ハイダル・アリーの息子として、バンガロールの北デーヴァナハッリで生まれた。生年月日に関しては諸説あり、1749年、1750年、11月20日、1753年と様々だが、だいたい1749年から1753年の間に生まれたとされている。
1761年6月、父ハイダル・アリーはマイソール王国の首席大臣(サルヴァーディカーリー)として完全にその実権を握った。これにより、 ヒンドゥー王家のオデヤ朝の君主は有名無実化し、マイソール王国にイスラーム政権マイソール・スルターン朝を樹立した。
当時18世紀後半、ベンガル周辺には、イギリスの勢力が確立されており、インド全土の植民地化を図り、デカンと南インドにも手を伸ばすようになってきた。
ハイダル・アリーはマイソールの実権を握ると、周囲への領土拡大や積極的な近代化政策を取って、イギリスへの対抗姿勢を示すことになっていった。
ティプー・スルターンは父の雇用したフランスの軍事顧問の大きな影響を受け、1766年に第一次マイソール戦争が始まると、それにも参加した。
第二次マイソール戦争中における活躍・地位の継承ティプー・スルターン