ティファニー_(アメリカの歌手)
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ティファニー
Tiffany
2003年、フロリダ州のガルフストリーム・パークにて。ダニエル・R・トビアス撮影
基本情報
生誕 (1971-10-02) 1971年10月2日
出身地 アメリカ合衆国
ジャンルポップス
職業歌手

ティファニー(: Tiffany、1971年10月2日 - )はアメリカの女性歌手。本名はティファニー・レニー・ダーウィッシュ(Tiffany Renee Darwish)。1987年から1989年にかけて米国で6曲(トップ40内5曲),英国で6曲がチャートイン。米国で4曲(1位2曲),英国で3曲(1位1曲)がトップ10ヒットを記録している。
目次

1 略歴

2 ディスコグラフィ

2.1 アルバム

2.2 企画CD

2.3 シングル


3 出演

4 脚注

5 外部リンク

略歴

カリフォルニア州ノーウォークに、レバノンシリアにルーツがある父とチェロキー族が入ったアイルランド系の母との間に生まれる。幼少時からのど自慢荒らしとして有名で、素人ながら相当の稼ぎがあったという。1986年MCAレコードと契約し、1987年に15歳でデビューした。

1986年にMCAと契約。ファースト・アルバムの制作にかかるときに、カントリーではなくポップ・フィールドで勝負しようという方針が立てられた。アルバムを2枚出して売れなかったら、カントリーの分野に戻ろうという話であった。しかしながら、2曲目の「I Think We're Alone Now」(邦題「ふたりの世界」)はいきなりビルボード1位の大ヒットを記録、続く「Could've Been」(邦題「思い出に抱かれて」)も1位となり、一躍トップアイドルとしてスターダムにのし上がった。「I Saw Him Standing There」は7位、「Feelings of Forever」は50位。当時は同じく成功をおさめた十代の女性歌手としてデビー・ギブソンがティファニーより先にデビューしており、ライバル関係と目されるようになる。ファースト・アルバムの『Tiffany』は日本でもオリコン洋楽アルバムチャートで1988年2月15日付から3週連続1位を獲得した[1]

1988年秋に来日し両国国技館でコンサートを開催した。

■エピソード■

I Think We're Alone Now

PV制作時、映画やドラマを専門とした監督を起用。監督もティファニーもPV制作が初めてだった為、かなり困惑した慌ただしい撮影になったという。とりあえずショッピングモールのツアーを中心に撮影することした。

Could've Been

大人すぎる歌詞が当時16歳の年齢に合わないとして周囲が選曲から外そうとしたがティファニーの切なる希望によりレコーディングされた。しかしながらPV撮影は歌詞と10代のルックスがミスマッチな為に作成はされなかった。代わりとしてライブ映像をアレンジしてpvを作成。周囲の心配を吹き飛ばすほどのヒットを記録したと同時にアドルトコンテンポラリーチャートでも一位を記録。幅広いファンを獲得し、その効果もあってデビューアルバムを1位の座に押し上げた。

■10代アイドルブームの背景■

 1987年11月7日付のビルボード誌シングル・チャートでティファニーの歌がNo.1に輝いたことは象徴的な事件ではある。

事の発端をどこに定めるかは難しい。83年のニュー・エディションか、それとも86年のチャーリー・セクストンやジェッツか。

いずれにしても、87年から次々と10代の歌手が名乗りをあげてきた時代。

ティファニーは16歳。デビー・ギブソンも16歳。シャニース・ウィルソンとANAにいたっては各々14歳、13歳で、エリサ フィオリロの18歳という若さがかすむほどである。 

こうした10代の突然の活躍に関して、一つにはポピュラー・ミュージックがあまりにも成熟してしまったことへの反動がある。例えば若者の音楽といわれたロックでさえファンとともに成長し、今では大人までもが聴ける。逆の見方をすれば、ロックをもっとも支持する10代のファンにとって、時にはそれがかけ離れたものになりかねない。このころの60年代や70年代前半からのスターたちが全般的に人気が下降気味なのも無関係ではないだろう。 

もう一つあげるとすれば、MTVの影響も考えられる。ビデオ・クリップがアーティストに必要不可欠のものになれば、ビジュアル面が重視されてくるわけで、そうなるとますます若さが最大の武器となる。それでなくとも、若いということ、ファンと同年代であるということはいつでも刺激的で、新鮮な魅力にあふれていたことがこの10代のアイドルブームの流れになったと考えられる。

  ●67年にルル、77年にショーン・キャシディ、87年にはティファニーが10代歌手としてNo.1を獲得。先にあげた5人の若手女性歌手の中ではティファニーの成功が注目に値する。なにしろ、10代の歌手が全米No.1になったのは77年7月にショーン・キャシディ以来の快挙。

女性歌手になると、67年10月の「いつも心に太陽を」のルルまでさかのぼる。

ただし、ティファニー自身は「No.1ヒットを出したけれど、あまりピンとこないの。学校で友だちから言われて、初めて有名人になったのかなと思ったぐらいだもの」と初々しい感想を述べるにすぎない素直で純粋な面を伺わせた。

■デビューの背景■

そもそも彼女がこの世界に入るきっかけとなったのは14歳の時、ショッピング・モールで買い物をしているところをプロデューサーのジョージ・トービンにスカウトされたという日本的なパターン。

幸い彼女は小さいころから歌手になることだけが夢で毎日ラジオを聴きながら好きな歌手のマネばかりしていた音楽少女だった。

アルバム『ティファニー』は放課後や休日を利用して1年がかりで録音した約40曲の中からベストの10曲を選んで完成させている。

その中にはトミー・ジェイムス&ザ・ションデルスの「ふたりの世界」、ビートルズの「アイ・ソー・ヒム・スタンディング・ゼア」といったカバー・ソングもある。

ティファニーは「私が生まれる前のヒット曲で、ジョージ・ドービンが選んでくれた曲なんだけど、古い歌を歌っている感覚がまったくなかった」という無心さが、はつらつとした魅力の作品に仕上がった要因と言える。

また、彼女のボーカルスタイルにはスティーヴィー・ニックスを意識した面やカントリー系の女性歌手に通じる魅惑的な声と色気の持ち主でもあるので、スローからミディアム・テンポの曲となると、大人びた表情を見せるのも興味深い。

ショッピングモールツアーについて彼女は「まだまだ私には大きなステージは無理」と、小さな街のショッピング・モールを地道にツアーしてまわる冷静さも彼女の成功につながった理由の一つである。

■ゴシップによる低迷■

彼女の成功によりプロデューサーのジョージによる全面的なマネージメントを任せることになった彼女はジョージによる商業的な管理をされることになる。順調に2曲のNo1ヒットを出した後、セカンドアルバムのレコーディングを始める。

その頃のティファニーは完全なるジョージによる洗脳により彼女の両親の許可無く仕事を進めていた為 彼女と両親の関係が上手くいかなくなり彼女は家出をしてしまう。

心配した彼女の母親は警察に家出の捜索願いを出す。

成功し始めた彼女は母親が芸能活動の邪魔をしないように裁判所に訴えた。

一時的に彼女の1番の応援者の祖母が彼女の保護者となることを裁判所か任命。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのティファニーはこのスキャンダルでティーンアイドルに必要な清純なイメージを崩ずされた。

彼女の4thシングルは期待されていたがスキャンダルの効果で思ったほど成功はできなかった。

彼女の資産の管理を巡る父親と母親が訴訟。

彼女のマネジメントを巡ってマネージャーと両親が法廷闘争。

彼女の取り巻く大人達が彼女の成功に対応できないだけではなく自分自身の利益に走るようになってしまった。彼女の取り巻く環境はイメージダウンをさらに加速させ修復できないものになる。

5thシングルの売上はさらに下降。

そんな中、当時かけだし中のニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックを周囲の反対を押し切り彼女のコンサートに前座として迎えた。しかし彼らに人気を奪われる皮肉な結果にも繋がった。なんと彼女のツアー中に人気絶頂にあったニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックにコンサートのメインを奪われる結果になる。ティファニーは前座へと交代。

ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックにファンを丸ごと彼らにうけわたす事態に。

相乗効果として彼らのグループの一員と交際した事でさらに人気が下降。

彼女の保護者やプロデューサーの誤解による熱狂なファンの1人を彼女の意志とは関係なくストーカーとして告訴。

1990年クリスマスに公開予定だった人気アニメJetsons movie。彼女がsoundtrackの3曲を担当。彼女のマネージャーがその中のメインキャラクターであるJudy Jetsonの声優をさせることをゴリ押し。Judyの声優であるJanet Waldoの録音部分を全てティファニーの声で再録音することを発表。多くのアニメファンから避難の声が殺到。映画は半年後まで先延ばしされることになる。結果、散々な酷評を受け興行的に失敗に終わった。

ティファニーはGeorge Tobinのマネージャーと決別。New Kids On The Blockを管理しているニューヨークを拠点とするエンターテイメントマネージャーDick Scottと契約する。その後、MCAはTobinに対して契約違反訴訟を提起する事態になる。Tobinが未発表のティファニーの曲を別のレコード会社に売却しようとしていた。 ティファニーはMCAとTobinの訴訟に巻き込まれてしまった。その後、ティファニーにその権利を獲得し訴訟に勝利している。

その後、マネージメント会社の交代によりTiffany Fan Clubはサービスを終了。

彼女の悪循環は終わりなく彼女のスキャンダルは当時止まることはなかった。

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2枚目のアルバム『Hold an Old Friend's Hand』を約一年後にリリース。

スキャンダルの為に短い期間で制作され、完成度の低いアルバムと各紙が評価。

商業的には成功と言えるが人気の下降は止められなかった。

「All This Time」6位、「Radio Romance」35位、「Hold an Old Friend's Hand」ACチャート37位、「It's the Lover (Not the Love)」ランク外。「Oh Jackie」は日本のみで発売。

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3枚目のアルバム『New Inside』をリリース。この頃から音楽性や容姿を変更。新しいティファニーとして、外見だけではなく歌い方も当時のR&B調に変更。しかし、カントリー&フレーバーを漂わせる彼女の個性の消滅。多くのスキャンダルが人気下降に拍車。彼女は精力的に多くのトークショーに参加してプローモーションに励んだがセールスに繋がらず商業的に大失敗に終わる。

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1991/04

商業的な失敗によりディックスコットの経営陣がティファニーとの契約を打切り。


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