ティト・プエンテ
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ティト・プエンテ
Tito Puente
200px
基本情報
出生名エルネスト・アントニオ・プエンテ・ジュニア
生誕1923年4月20日
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州 マンハッタン
死没 (2000-05-31) 2000年5月31日(77歳没)
ジャンルラテン音楽
マンボ
サルサ
ラテン・ジャズ
職業ミュージシャン
担当楽器ティンバレスヴィブラフォンキーボード

ティト・プエンテ(Tito Puente, 本名:エルネスト・アントニオ・プエンテJr, 1923年4月20日 - 2000年5月31日)は米国ニューヨーク出身のラテン音楽・ミュージシャン。「マンボの王様」、「ラテンの王様」[1]とも呼ばれ、ティンバレスヴィブラフォンキーボードなど複数の楽器を起用に演奏した。また、作曲家・編曲家・バンドリーダーとしても足跡を残した。

1940年代から活躍しペレス・プラードらとともに、50年代マンボブームの立役者の一人でもある。プレイヤーおよびバンドリーダーとして、後のラテンジャズサルサの発展にも寄与し、自らのバンドから多くの後進を輩出した功績もあった。

スペイン語では息子のことを"-ito"(―ィート)と呼び、プエンテは「エルネスティート」の「ティート」から「ティト」の愛称で呼ばれるようになった。目次

1 バイオグラフィ

2 ディスコグラフィ

2.1 アルバム


3 関連項目

4 脚注

5 外部リンク

バイオグラフィ

プエルトリカンの両親を持つ。ニューヨーク市マンハッタン北東部のヒスパニック居住区(スパニッシュ・ハーレム)で少年時代を過ごした。13歳の時、プエンテはラモン・オリベーロの楽団に加入しデビューする。マチート、ホセ・クルベーロ、ノロ・モラレスの楽団に参加している。1948年に自己のグループ「ピカデリー・ボーイズ」(プエンテ楽団の前身)を結成。デビューから1950年代初めのプエンテ楽団にはエディ・パルミエリの兄、チャーリー・パルミエリや、マニー・オケンドが参加している。ティンバレスは元々は、リズムを支える地味な楽器だったが、プエンテはそれを前面に出すことで、ラテン音楽の主役楽器に押し上げた。

プエンテの代表曲である『Oye Como Va』(僕のリズムを聞いとくれ)は、ラテンロックバンドサンタナ[2]にカバーされ、ラテン世界以外にも知られるようになった。プエンテはライブで「サンタナの曲をやってくれと言われるんだ」とジョークを飛ばし、観客を笑わせていた。

以降、生涯現役として精力的な演奏活動を続け、一時的な人気の低迷はあったものの、死の直前まで音楽活動を続け、100枚を超えるリーダーアルバムを残した。
ディスコグラフィ
アルバム

Cuban Carnival(1956)

Dance Mania(1958)

Mamborama(1959)

Vaya Puente(1962)

Pa'lante! Straight!(1971)

Homenaje A Benny More(1978)

On Broadway (1983)

Live At The Village Gate(1992)

Obra Maestra (Masterpiece) (2000)

関連項目

ファニア・オールスターズ

ウィリー・ボボ

モンゴ・サンタマリア

コンガ

ボンゴ

脚注^Tito Puente - LATIN MUSIC USA
^ 「ブラック・マジック・ウーマン」もカバー曲で、オリジナルはブルース・ロック時代のフリートウッド・マックである

外部リンク

ファニア・レコード内(英語版)

コンコード・ミュージック内(英語版)

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更新日時:2020年5月3日(日)03:38
取得日時:2020/06/15 20:23


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