ティツィアーノ
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
自画像』、 プラド美術館 (1567年頃)
本名Tiziano Vecelli
誕生日1490年8月31日
出生地 ヴェネツィア共和国ピエーヴェ・ディ・カドーレ
死没年1576年8月27日
死没地 ヴェネツィア共和国ヴェネツィア
国籍 ヴェネツィア共和国
運動・動向盛期ルネサンス
芸術分野絵画
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ティツィアーノ・ヴェチェッリオの肖像がデザインされている20000リラ紙幣

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(: Tiziano Vecellio、1490年[1] - 1576年8月27日[2])は、盛期ルネサンスのイタリア人画家。ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人である。ヴェネツィア共和国ベッルーノ近郊のピエーヴェ・ディ・カドーレ出身で、生誕地の名を採って「ダ・カドーレ(da Cadore)」とも呼ばれた。一方、日本では、チシアンとも表記されていた。

ティツィアーノは同時代の人々からダンテ・アリギエーリの著作『神曲』からの引用である『星々を従える太陽』と呼ばれていた。肖像、風景、古代神話、宗教などあらゆる絵画分野に秀で、ヴェネツィア派でもっとも重要なイタリア人画家の一人となっている。ティツィアーノの絵画技法は筆使いと色彩感覚に特徴があり、イタリアルネサンスの芸術家だけではなく、次世代以降の西洋絵画にも大きな影響を与えた[3]

ティツィアーノは長命な画家で、その作風は年代とともに大きく変化しているが[4]、その生涯を通じて独特の色彩感覚は変わることがなかった。円熟期のティツィアーノの絵画は色鮮やかとはいえないものもあるが、初期の作品の色調は明るく、奔放な筆使いと繊細で多様な色使いは、それまでの西洋絵画に前例のない革新的なものだった。
略歴
初期1512年頃に描かれた『キルトの袖をつけた男の肖像』。この肖像画は長い間ルドヴィーコ・アリオストの肖像画と考えられてきたが、現在では自画像ではないかと考えられている。この絵画の画面構成は、後世のレンブラント・ファン・レインの自画像に模倣されている

ティツィアーノの正確な生年月日は伝わっていない。老境のころにスペインフェリペ2世に宛てた書簡には1474年生まれという記述があるが、これはまずありえない[5]。同時代人のほかの記録には、風貌からは1473年から1482年生まれに見えるというものもある[6]。しかしながら現代では1490年前後だと考える研究者が多く、メトロポリタン美術館ゲティ研究所では1488年ごろとしている[7]

ティツィアーノは、ピエーヴェ・ディ・カドーレ城の管理者で、地方鉱山の責任者でもあったグレゴリオ・ヴェチェッリオと妻ルチアの長男として生まれた[8]。父グレゴリオは、著名な評議員で軍人でもあった。祖父は公証人で、ヴェネツィア共和国統治下のこの地方では名家の家系だった。

10歳から12歳くらいのときに、ティツィアーノと弟のフランチェスコは画家の内弟子になるためにヴェネツィアの叔父のもとへと送られた。そして一家の友人で、息子が知られたモザイク作家になったこと以外さほど知られていない画家のセバスチアーノ・ツッカートが、二人の兄弟のためにジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行できるよう手配している[8]。当時のベリーニはヴェネツィア有数の画家だった。ティツィアーノはこのヴェネツィアでジョヴァンニ・パルマ、ロレンツォ・ロットセバスティアーノ・デル・ピオンボ、そしてジョルジョーネら年齢の近い芸術家たちと出会うことになる。弟のフランチェスコ(英語版)も後にヴェネツィアで成功した画家になった。

ヴェネツィア貴族モロシーニ家(英語版)邸宅のヘラクレスを描いたフレスコ画、師ベリーニ風の『ジプシーの聖母』がティツィアーノの初期の作品とされているほか[9]、S.アンドレア女子修道院由来でアカデミア美術館所蔵の『聖母マリアと聖エリザベトの訪問』もこのころに描かれたティツィアーノの作品だとされている。十字架を担うキリスト』(1510年頃)
サン・ロッコ大同信会館(ヴェネツィア)
かつてはジョルジョーネの作品とされていた

ティツィアーノはジョルジョーネの助手を務めているが、すでに当時のティツィアーノの作品に対する評価は高いものだった。ジョルジョーネと共同で制作したフォンダコ・デイ・テデスキ(英語版)(ドイツ商人館)の外装を飾るフレスコ画(破損しておりほとんど現存していない)など、二人の力量は拮抗し、共同作業が互いに好影響を与えていた。この時期の二人の絵画の判別は現在でも学術的論争になっており、20世紀になってもそれまでジョルジョーネ作と考えられていた作品がティツィアーノ作に比定されなおしたり、数は少ないが逆にティツィアーノ作と思われていた絵画がジョルジョーネ作に改められたこともある。『見よこの男を』の場面を描いたヴェネツィアのサン・ロッコ大同信会館が所蔵する『十字架を担うキリスト』は[10]、長きに渡ってジョルジョーネの作品だとされてきた[11]。若きジョルジョーネとティツィアーノは、ヴェネツィア絵画を革新した。その特徴的で柔軟な表現技法には、それまでの絵画にあった硬直した表現や、ベリーニの作品に散見されるような宗教的因習の残滓は見られない。洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』(1515年頃)
ドーリア・パンフィーリ美術館(ローマ)
サロメユディトとも)を描いたこの宗教画は、ティツィアーノが発展させたジャンルである理想化された女性の肖像画とされ、ヴェネツィアの高級娼婦をモデルにしているともいわれる

1507年から1508年にかけて、ジョルジョーネは再建されたフォンダコ・デイ・テデスキのフレスコ画制作を依頼された。ティツィアーノとモルト・ダ・フェルトレもこれに参加しているが、現存している数少ない断片はジョルジョーネの手によるものと考えられている。ジョヴァンニ・バッティスタ・フォンタナ(英語版)による版画としてではあるが、二人の作品で現存しているものもある。1510年にジョルジョーネが夭折した後も、ティツィアーノはジョルジョーネ風の作品を描いてはいるが、すでに大胆で表現力豊かな独自の作風を確立していた。

フレスコ画におけるティツィアーノの絵画技術は、1511年に描かれたパドヴァカルメル会修道院とサンタントニオ信者会に残る『金門での出会い』やパドヴァ守護聖人アントニオの生涯を題材にした『新生児の奇蹟』 (スクオーラ・デル・サント(英語版)、パルマ) を含む三場面の作品などで見ることができる。

1512年にティツィアーノはパドヴァからヴェネツィアに戻ってから、S.サムエレのカナル・グランデに工房を構えているが、現在その正確な場所は伝わっていない。1513年には前途有望あるいはすでに功名を成し遂げた芸術家が熱望するサンセリア(La Sanseria)と呼ばれる専売仲介特権をフォンダコ・デイ・テデスキから得た。さらに国家規模の絵画制作の最高責任者に任ぜられて、ベリーニが未完成のまま残したドゥカーレ宮殿大議会堂の絵画を完成させている。ベリーニが死去した1516年以前から、専売仲介特権から収入が上がるようになり、銀貨20枚という十分な年金を受け取るようになった。さらにドゥカーレ宮殿の絵画制作を継続するという条件で一部租税を免除され、作品を仕上げるごとに銀貨8枚で買い上げられた。ドゥカーレ宮殿のために描かれた絵画で現存しているのは5点のみである。
中期聖母被昇天』(1516年 - 1517年)
サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂(ヴェネツィア)[12]
完成に2年かかった大作で、躍動的な三階層の構図と色彩構成が、ティツィアーノをローマ以北でもっとも傑出した画家の一人という評価を定着させた

1516年から1530年にかけてのこの時期は、ティツィアーノが初期のころのジョルジョーネ風作品から、より大規模で複雑な構成の作品をそれまでにない作風で描こうと試みた、技能熟練と熟成の時代といわれる。ジョルジョーネは1510年に、ベリーニは1516年に死去し、ヴェネツィア派にはすでにティツィアーノに比肩する画家はいなくなり、その後60年間にわたって誰もが認めるヴェネツィア絵画の第一人者であり続けた。1516年にサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の依頼で、現在ティツィアーノの代表作ともいわれる祭壇画『聖母被昇天』を描き始めた。非凡な色彩感覚に彩られたこの絵画は、それまでのイタリア絵画でもまれなほど大規模な作品で、大評判となった[13]。当時のシニョリーアの記録には、ティツィアーノが描いたドゥカーレ宮殿大議会の装飾絵画の支払は放置されていたが、ベリーニの死後1516年になってから、それまでベリーニに支払われていた年金を議会から受け取るようになったという記述がある[14]

『聖母被昇天』は三階層の構図で、世俗の地上と神聖な天界という二つの異なる場面が同時に表現されている。この作品は連作であり、現在バチカン美術館が所蔵するアンコーナのサン・ドメニコ会祭壇背障画 (en:retable)(1520年)、ブレシアの祭壇背障画(1522年)、サン・ニッコロの祭壇背障画(1523年)が次々と描かれた。時代を下るにしたがってより大きく、そして完成度が高くなっていき、1519年から1526年までかかって完成したフラーリ聖堂の祭壇画『聖会話とペーザロ家の寄進者たち』でルネサンス古典様式の一つの頂点を迎える。この絵画はティツィアーノの作品の中でもっとも計算されつくした絵画といわれ、独自の創造力と作風に満ちた傑作とされている。ティツィアーノは寄進者たちと聖人たちという伝統的モチーフ[15]を空想的な建物空間に表現し、それぞれのキリスト教的地位を建物の上下の位置で表すという、新しい構想でこの作品を描いている[16]。当時のティツィアーノの名声は非常に高く、1521年にはブレシアでローマ教皇特使からの依頼で、現在でも多くの模写が残っている聖セバスティアヌスを描いた絵画の制作に追われていた。

この時代の1530年に描かれた、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会が所蔵していた『聖ペテロの殉教』も非常に重要な絵画だったが、1867年にオーストリア軍から砲撃を受け焼失してしまっている。この作品は模写と版画が残されているのみで、極端なまでの暴力描写と風景画が描かれ、画面の大部分を占める巨大な樹木と物語性を強調する劇的表現から、この絵画はバロック様式の萌芽と考えられている[17]うさぎの聖母』(1530年頃)
ルーブル美術館(パリ)

ティツィアーノには聖母マリアあるいは聖母子を扱った小作品を集中的に描いた時期があった。美しい風景に囲まれた人物画で、風俗画あるいは詩的な肖像画風に描かれており、現在ルーブル美術館が所蔵する『うさぎの聖母』が典型的な作品である。他にもルーブル美術館には1520年に描かれた『キリストの埋葬』がある。バッカスとアリアドネ』(1520年 - 1523年)
ナショナル・ギャラリーロンドン

この時代のティツィアーノには神話をモチーフにした、3点の大作がある。フェラーラアルフォンソ1世・デステのフェラーラにあったアルフォンソ1世邸の書斎「カメリーノ・ダラバストロ(Camerino d'Alabastro)」のために描かれた作品群で、現在プラド美術館が所蔵する『ヴィーナスへの奉献』(1519年)、『アンドロス島のバッカス祭』(1523年 - 1524年頃)と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『バッカスとアリアドネ』(1520年 - 1523年)である[18]。「おそらくルネサンス期における、もっとも美しい「異教徒風(neo-pagan)」の、あるいは「アレクサンドリア風(Alexandrianism)」の絵画群といえる。幾度となく手本とされた作品だが、ルーベンスでさえこれらの作品を超えることはできなかった」といわれる[19]

ほかに、高級娼婦を描いたとされるウフィツィ美術館所蔵の『フローラ』(1515年頃)、ルーブル美術館所蔵の『鏡の前の女』(1513年 - 1515年頃)など、上半身のみを描いた肖像画はこの時代を最後に描かれた作品である。

ティツィアーノの妻セシリアは、ティツィアーノの故郷ピエーヴェ・ディ・カドーレ出身の理髪師の年若い娘で、5年にわたってジョルジョーネ家の家政を取り仕切る内縁関係にあった。ティツィアーノとの間にはすでにポンポーニオとオラツィオ(英語版)の二人の息子が生れていたが、1525年にセシリアは重病にかかってしまう。ティツィアーノは二人の息子を法的に認知するためにセシリアと正式に結婚した。結婚した二人の関係は良好で、セシリアは健康を取り戻し二人の娘を産んだが、ラヴィニアと名付けられた娘だけが成人した。ティツィアーノは次男のオラツィオを可愛がり、後にオラツィオはティツィアーノの助手を務めることになる。


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