ティエリー・ダルザス
Thierry d'Alsace
フランドル伯
ブルッヘのバジリカにあるティエリー像
在位1128年 - 1168年
出生1099年/1101年
死去1168年1月17日
埋葬 フランドル伯領、ウトン修道院
配偶者マルグリット・ド・クレルモン=ボーヴェーズィー
シビーユ・ダンジュー
子女一覧参照
家名ロレーヌ家
父親ロレーヌ公ティエリー2世
母親ジェルトリュード・ド・フランドル
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ティエリー・ダルザス (Thierry d'Alsace[1], 1099年/1101年 - 1168年1月17日)は、フランドル伯(在位:1128年 - 1168年)。ロレーヌ公ティエリー2世と妃ジェルトリュード・ド・フランドル(フランドル伯ロベール1世の娘)の子。アルザスに所領を与えられたことからティエリーの家系はアルザス家と呼ばれる[2]。 1127年に従兄であるシャルル1世が暗殺されると、ティエリーは自身がロベール1世の孫であることからフランドル伯位継承を請求した。 しかし、フランス王ルイ6世の支援を受けたギヨーム・クリトンが伯位を継承した。ギヨームの政治とフランドルの独立性に向けた姿勢は非常に不人気で、その年の終わりまでにブルッヘ、ヘント、リールおよびサントメールは競合するフランドル伯としてティエリーを認めていた。フランドルの神聖ローマ帝国内派閥に属したティエリー支持者たちと、彼はフランドル到着後すぐにギヨームとの戦いに専念した。ルイ6世の要請で、ランス大司教はティエリーを破門した。 ルイ自身が当時リールを包囲中であったが、イングランド王ヘンリー1世(ギヨーム・クリトンの叔父であるが、ギヨームが力を持つことを望まなかった)がティエリー支持にまわったため退却を余儀なくされた。しかしティエリーはティールトとオーストカンプで敗退し、ブルッヘへ逃れた。ティエリーはブルッヘから逃亡せざるを得なくなり、アールストへ向かったが、そこはギヨーム、ルーヴァン伯ゴドフロワ1世、ルイ6世の包囲下にすぐ入ってしまった。1128年7月27日にギヨームが死んだことがわかると町は陥落され、ティエリーは唯一の伯位請求者となった。 ティエリーはヘントに自らの行政府を置き、全フランドル都市のみならずヘンリー1世に認定させた。イングランドにいるフランドルの地方領主もティエリーに忠誠を誓った。ティエリー自身は1132年以降ルイ6世に忠誠を誓った。自身のフランドル伯位継承を主張するエノー伯ボードゥアン4世に対抗して、フランス側から支持を得るためであった。 1132年、最初の妻が娘一人を残して死んだ。1139年、十字軍に参加してティエリーは聖地へ向かい、エルサレム王フルク・ダンジューの娘シビーユと結婚した。エルサレム王の娘との結婚は非常に権威のあるものだった。彼女はギヨーム・クリトンの元妻でもあった。 ティエリーはその生涯で4度の聖地巡礼を行っているが、この時が初めての巡礼であった。この間彼はカエサレア・ピリピへの輝かしい遠征を率い、ギレアド侵攻では義父とともに戦った。当時ルーヴァン伯ゴドフロワ3世が治めていた下ロタリンギア公国で反乱が起き、それを鎮圧するためティエリーは直ちにフランドルへ帰国した。 2度目にティエリーが聖地へ向かったのは1147年、第2回十字軍としてであった。彼はアナトリアでメンデレス川渡河を率い、1148年のアタリヤの戦いに参加した。十字軍国家に到着後、ダマスカス攻撃を行う不運な決定がなされたアッコン評議会に参加した。
生涯