ティエリ・アンリ
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ティエリ・アンリ

ティエリ・アンリ(2021年)
名前
本名ティエリ・ダニエル・アンリ
Thierry Daniel Henry
愛称ティティ
ラテン文字Thierry HENRY
基本情報
国籍 フランス
グアドループ
マルティニーク
生年月日 (1977-08-17) 1977年8月17日(46歳)
出身地レ・ジュリス
身長188cm
体重83kg
選手情報
ポジションFW (CF, WG)
利き足右足
ユース
1983-1989 レ・ジュリス
1989-1990 パレゾー
1990-1992 ヴィリー=シャティヨン
1992 クレールフォンテーヌ
1992-1994 モナコ
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1994-1999 モナコ 105 (20)
1999 ユヴェントス 16 (3)
1999-2007 アーセナル 254 (174)
2007-2010 バルセロナ 80 (35)
2010-2014 ニューヨーク・レッドブルズ 122 (51)
2012→ アーセナル (loan) 4 (1)
通算581 (284)
代表歴
1992-1993 フランス U-154 (3)
1993-1994 フランス U-168 (4)
1994-1995 フランス U-1711 (10)
1996-1997 フランス U-1813 (2)
1996-1997 フランス U-199 (5)
1997 フランス U-2011 (7)
1998-1999 フランス U-215 (2)
1997-2010 フランス[1]123 (51)
監督歴
2016-2018 ベルギー (アシスタントコーチ)
2018-2019 ASモナコ
2019-2021 モントリオール・インパクト
2022 ベルギー (アシスタントコーチ)
2023- フランス U-21
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ティエリ・ダニエル・アンリ(Thierry Daniel Henry, 1977年8月17日 - )は、フランスエソンヌ県レ・ジュリス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元フランス代表で、フランス歴代2位の51得点を記録している[2]。現役時代のポジションはフォワード

プレミアリーグ歴代最多となる4度の得点王受賞をはじめ[3]、FWA(Football Writers' Association、サッカーライター協会)の投票によるFWA年間最優秀選手賞を3度受賞、PFA年間最優秀選手賞を2度受賞、UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーを同賞最多の5度受賞と数々の個人タイトルを獲得。プレミアリーグにおける1シーズン歴代最多アシスト数(タイ)の(20アシスト)を誇る。
経歴
クラブ
アーセナル入団まで

父親はグアドループでプロサッカー選手をしていたが、生活の安定を求めてフランス本土に渡り、パリ郊外でティエリを育てた[4]。6歳の時に地元のクラブであるレ・ジュリス・フットボールに入団し、クラブでの練習のない日は厳格な父親による英才教育を受けた[4]。なお、このクラブからはパトリス・エヴラもプロサッカー選手に育った。12歳から15歳の間は色々なクラブを転々としたが、クレールフォンテーヌ(INF、フランスサッカー学院)に入学して英才教育を受けた。なお、一度は入学試験に落とされたが、辞退者が出たために入学を許可されたという経歴を持つ[5]

本人が語るところによると、INF卒業後にベルサイユのクラブに1シーズンだけ在籍しており、22試合に出場し76得点を記録しているとのこと[6]。この時にASモナコのスカウトが視察した試合で7得点を決め、16歳の時に父アントワーヌが仮契約書にサインしASモナコに入団。

ASモナコの下部組織での活躍により、当時トップチームの指揮官であったアーセン・ベンゲルに抜擢され、1994年8月31日OGCニース戦でリーグ・アンデビュー。1994-95シーズンは8試合に出場し3得点の成績を残した。なお、この当時のアンリのポジションはフォワードではなくウイングであった。1995-96シーズンは母国で開催された欧州U-19選手権のメンバー入りも果たす。1996-97シーズンには36試合に出場し9得点でチームのリーグ優勝に貢献し、UEFAカップでも初得点を記録。リーグ・アン年間最優秀若手選手にも選出される。

1998-99シーズン途中に監督ジャン・ティガナとの衝突が原因でセリエAユヴェントスFCに移籍。モナコでは起用法を巡ってのすれ違いから退団を決めたが、移籍先のユヴェントスでも不慣れな左ウイングバックでの出場を余儀なくされ、実力をほとんど発揮できずに3得点でシーズンを終える。その頃に、モナコでアンリをトップチームに抜擢したアーセン・ベンゲルから「もし、イタリアでうまくいかなければ、私がまた獲得する」と促されており、その言葉を追うように1999年8月3日にベンゲルが指揮を執るプレミアリーグアーセナルFCに入団[7]。この件にはアーセナルがニコラ・アネルカレアル・マドリードに約45億円で移籍させた背景もあり、アンリ獲得のためにアーセナル側が積んだ金額はアネルカの移籍で得た収入の約半分である。
アーセナル時代アーセナル時代のアンリ(2006)

ニュータイプのフォワードを構想していたベンゲルは、アンリをウイングからセンターフォワードにコンバートする。移籍初年度こそ新境地のポジションに戸惑いも見せるも、翌2000-01シーズンからは実力を遺憾なく発揮し、得点数こそ昨シーズンと同じながら敵陣のタッチライン際を快足をもって突破していくシーンは観戦者に強烈な印象を与えた。2001-02シーズンには24得点で得点王に輝き[8]、チームは勝ち点87ポイント得失点差43でプレミアリーグ移行後2度目のリーグ優勝を果たす[9]。またFAカップも優勝し、二冠を達成。

2002-03シーズンは優勝を逃し、アンリ自身も得点王を逃したが、得点数は昨シーズンと同じ24得点を記録し、PFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。チームの総得点数はリーグ最多の85得点と全体として高いパフォーマンスを誇った。またFAカップ2連覇。このシーズンに20アシストでアシスト王になったが、このアシスト数は2018-19シーズン終了時点でプレミアリーグにおける1シーズンの歴代最多アシスト記録である[10]

2003-04シーズン、チームは26勝12引き分け勝ち点90ポイントと無敗優勝を成し遂げ、アンリは30得点で得点王に返り咲く。2年連続でPFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞を受賞。この時期のアーセナルはしばしば「The Invincibles(無敵)」と讃えられ、アンリの他にパトリック・ヴィエラロベール・ピレス、シーズン途中に移籍したシルヴァン・ヴィルトールといったフランス人選手が主力として顔を揃えていた。また、これらに監督アーセン・ベンゲルを含めて「フレンチ・コネクション」と呼ばれた。2003年のバロンドールではパベル・ネドベドに次いで2位となった。

2004-05シーズン、アンリは25得点を記録し2年連続で得点王に輝き、更に3年連続でFWA年間最優秀選手賞を受賞。チームは無敗記録を49試合にまで伸ばし、1977-78シーズンにノッティンガム・フォレストが達成した42試合無敗記録を27年ぶりに更新。49試合ぶりの黒星はマンチェスター・ユナイテッドに喫した。アーセナルは勝ち点83ポイント得失点差51で2位。またFAカップ王者に1年ぶりに返り咲く。

2005-06シーズン、3年間アーセナルの主将を務めたパトリック・ヴィエラがユヴェントスに移籍し、アンリはゲームキャプテンを任せられる。アンリ自身は27得点を記録し得点王を3年連続で受賞するも、チームは4位でシーズンを終え2連覇を果たしたチェルシーFCとの勝ち点差は24ポイント。一方で、欧州フットボール界の七不思議とまでいわれ勝てない時期が続いたUEFAチャンピオンズリーグでは連続無失点試合の記録を更新し、決勝でFCバルセロナに敗れるも準優勝と健闘した。

2006-07シーズンは怪我で大半の試合を欠場し、得点王連続記録もここで途絶える。チームの大黒柱の代役を務めたとは言い難いが、アンリのポジションにはエマニュエル・アデバヨールロビン・ファン・ペルシーといった新鋭の台頭も見られ、チームの急速な世代交代により栄華を極めた時代の選手はアンリ以外はほとんど退団していた。2007年6月、2400万ユーロでバルセロナへの移籍が決まる。
バルセロナ時代練習中のサミュエル・エトーとアンリ(バルセロナ時代)バルセロナでプレーするアンリ

リーガ・エスパニョーラ2007-08シーズン、当時3トップを形成していたロナウジーニョサミュエル・エトーリオネル・メッシと自身を合わせた組み合わせは“ファンタスティック4”と呼ばれ注目されたが、スペインサッカーのスペースの少ないゆったりしたスタイルに戸惑い、また左ウイングのような役割に徹することで終始低調なプレーが続き30試合12得点でシーズンを終える。

2008-09シーズン、新たに監督に就任したジョゼップ・グアルディオラのチーム再編に伴い、ロナウジーニョ、デコが退団。より強健なチーム作りの中で当初はやサミュエル・エトーアンドレス・イニエスタの控えに甘んじていたものの、次第に復調の兆しを見せ、守備に奔走する姿勢もみせるなか19得点を記録。チームは第36節アウェーでのマジョルカ戦後に3シーズンぶりのリーグ優勝を決め、最終成績は27勝6分5敗、勝ち点87ポイント得失点差70。またUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグからの12試合で3得点をあげ、決勝戦でマンチェスター・ユナイテッドを破り優勝[11]。アンリは5得点を記録。更にコパ・デル・レイも優勝し、スペインのクラブ史上初の三冠を達成した。

復調の兆しを見せた昨シーズンとはうってかわり、2009-10シーズンは終始単調なプレーを繰り返し、ベンチを暖める場面が増えた。若手のペドロ・ロドリゲスの活躍の影に潜んでいたが、終盤戦にセンターフォワードでの起用が多くなると、やや調子を取り戻した。
ニューヨーク・レッドブルズ時代ニューヨーク・レッドブルズ時代のアンリ

2009-10シーズン終了後、FCバルセロナとの契約を解除した。2010年7月14日、特別指定選手制度 (Designated Player Rule) を用いてメジャーリーグ・サッカーニューヨーク・レッドブルズへ移籍した[12]。7月31日、ヒューストン・ダイナモ戦でMLSデビューを果たし、フアン・パブロ・アンヘルの2ゴールを両方アシストした。8月28日、サンノゼ・アースクエイクス戦でMLS初ゴールを挙げた。


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