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出典検索?: "テアトル・エコー"
株式会社テアトル・エコー
種類株式会社
本社所在地 日本
〒150-0011
東京都渋谷区東3丁目18番3号
設立1954年
業種サービス業
法人番号8011001014740
事業内容劇団
主要部門
スタジオ・エコー
プロダクション・エコー
エコー俳優声優アカデミー
関係する人物熊倉一雄(元代表)
外部リンクhttps://t-echo.co.jp/
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テアトル・エコー(Theater Echo)は、日本の劇団。1954年(現体制では1956年[1])に発足し、東京都渋谷区東の恵比寿・エコー劇場を本拠とする。劇団は「株式会社テアトル・エコー」が運営している。日本芸能マネージメント事業者協会会員。
エコーグループとして、劇団員を中心とするマネジメント部門(芸能事務所)であるプロダクション・エコー[注釈 1]があるほか、関連組織にスタジオ・エコーやエコー俳優声優アカデミーがある[3]。 新劇の喜劇を専門的に上演する老舗の劇団として知られ[2]、近年は年2回前後の本公演や企画公演、全国巡演を行う[4]。 ニール・サイモンやノエル・カワードなど現代喜劇を多く上演する一方で、オリジナル作品にも積極的であり劇作家としてはキノトールや井上ひさし[4]を出している。また、新人劇作家の発掘を目的に創作戯曲を募集している[4]。 日本新劇製作者協会、日本劇団協議会[1]、日本芸能マネージメント事業者協会[2]に加盟。 代表は、熊倉一雄が発足初期から2015年の死去まで長年にわたり務めた[5]。以降の代表は村井亨子。劇団のロゴデザインは納谷悟朗が担当[6]。過去には能勢山誠一が劇団代表を務め、和田文夫は1967年から1992年まで法人社長を務めていた[7]。 喜劇専門の劇団であることから、コント赤信号、ダチョウ倶楽部の上島竜兵と寺門ジモンなど後にお笑い芸人として活動する者もいる。 劇団内には附属養成所があり、後進の育成にも積極的である。2017年以降は「エコー俳優声優アカデミー」と改称、リニューアルした[8]。 マネジメントに関して、現在は劇団と同一グループにある「プロダクション・エコー」が担当。2023年10月1日までの名称は「テアトル・エコー放送映画部」で、劇団員のマネジメントである「劇団演技部」と、その他(声優業のみなど)のマネジメントである「放送映画部」に分かれていたが、改称後は統一された。 これは、発足して間もない1950年代当時、黎明期のテレビで海外作品の吹き替え放映の際に新劇俳優が声優に起用されることが多く、テアトル・エコー所属者の多くも吹き替えに多用されたことが始まりである。納谷悟朗によると、当初はテレビドラマなど俳優として顔出しの出演もあったが、拘束日数の長さを考慮したマネージャー側により短時間でできる声の仕事が自然と増えたという[9]。 吹き替えやテレビアニメには草創期より数多くの劇団員が出演し、キャスティング協力をして劇団員が出演の大半を占める作品もあった(当時のおもな出演作品は#劇団員が多数出演した作品を参照)。附属養成所出身でかつて所属した田中真弓は後に「(入団当時は)声優の創成期みたいなのを作った人たちがいた」と回想している[10]。 特撮番組では、1980年代初頭まで怪人役を中心にテアトル・エコー劇団員の占める割合が高かった。劇団員の1人である沢りつおは、普通の俳優では怪人役を引き受けないため、喜劇専門のテアトル・エコーに声がかかったと述べている[11]。 1970年代から1980年代頃までは、ワーナー・ブラザース作品(『ピンク・キャデラック』など)やディズニー作品(『101匹わんちゃん』など)で吹き替え制作に協力しており、劇団員がユニットで出演する機会も多かった。1988年には吹き替え版制作を行う関連会社スタジオ・エコーが発足。現在でもディズニー作品や洋画、海外ドラマの吹き替えを中心に多くの劇団員が活動している。 1950年9月、1931年から1936年まで存在した劇団テアトル・コメディに在籍していた北沢彪を中心に、朗読の勉強会として前身となる「やまびこ会」が発足[12]。 1954年6月、劇団活動を開始。同時に、北沢の命名で「やまびこ会」を英語にした「テアトル・エコー」と改称[12]。 1956年9月、資金難から解散の危機を迎えたものの、梶哲也の自宅に19人が集い気焔をあげる形で再建。現体制の礎となる[12]。
概要
声優活動
沿革
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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