ツービート
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この項目では、昭和50年代に活躍した日本の漫才コンビについて説明しています。星野源のライブ公演DVDについては「ツービート in 横浜アリーナ」を、音楽用語については「ドラム・ビート#2ビート」をご覧ください。
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ツービート
メンバービートきよし
ビートたけし
結成年1972年
事務所ライト企画
フリー
吉川事務所
太田プロダクション
ビートきよし?フリー
ビートたけし?太田プロダクション
たけし・オフィス北野
きよし?フリー
きよし?ダテ企画
オフィス北野
キャストパワー
たけし?オフィス北野
T.Nゴン
活動時期1972年 -
師匠深見千三郎
コロムビア・ライト
松鶴家千とせ
出身浅草フランス座
出会い浅草フランス座
旧コンビ名松鶴家二郎・次郎(二代目)
→空たかし・きよし
芸種漫才
ネタ作成者ビートきよし
→ビートたけし
過去の代表番組THE MANZAI
オレたちひょうきん族
笑ってる場合ですよ!
同期横山たかし・ひろし
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ツービート(: TWO BEAT)は、ビートきよし(本名:兼子二郎)とビートたけし(本名:北野武)の2人による漫才コンビ。1972年結成。きよしはたけしを「相棒(あーいぼう)」と呼び、たけしはきよしを「ビートきよしさん」もしくは「兼子さん」と呼んでいる[注 1]
経歴
コンビ結成

元々、兼子二郎(ビートきよし)は浅草ロック座で劇場進行の修行を、北野武(ビートたけし)は浅草フランス座(現在の浅草フランス座演芸場東洋館)で深見千三郎門下のコメディアンとしてコントの下積み修行をしていた。たけしは当初、同じフランス座の同僚の青年[注 2]とコンビを組んでコントを演じたこともあったが、その相方が神経性の病気から入院したため、自然消滅(後のビートたけしの楽曲『浅草キッド』はこの時代を歌ったもの。「夢は捨てたと言わないで」のくだりは相方が病室で「もう夢は捨てた」と発言したことによる[注 3])。きよしもレオナルド熊の弟子と漫才コンビを組んで名古屋の大須演芸場に出演することになっていたが、レオナルド熊がその弟子を破門したため、代わりの相方を探していた[3]

きよしは、以前ストリップの幕間のコントで共演したことがあったたけしに新パートナーの提案を持ちかける。ここで、後のツービートの前身となるコンビが結成されることとなる。たけしの師、深見千三郎は弟子の漫才への転向を認めず、たけしを即刻破門。これで漫才コンビ結成への壁がひとつ消えたが、まだ大きな障壁が残されていた。

それが当時の漫才協団(現・漫才協会)のルール「舞台で漫才をするには漫才協団への加盟が必要」というものだった。当人たちがコントから漫才に演目を変えようと思ったところで、漫才師として勝手に舞台に上がるなど、当時は断固許されない状況だったのだ。そのため、たけしが目をつけたのが松鶴家千とせ。千とせは当時、西秀一という芸名を名乗り、西秀一・秀二として漫才を行っていたが、たけしはその漫才スタイルに惹かれていた。たけしは名古屋の大須演芸場まで赴き、千とせと大阪の漫才コンビ、中田ダイマル・ラケットが麻雀をしていた楽屋に押しかけた。そこで千とせに向かって「パンチの効いたネタをやってましたね、僕らもああいうのをやりたいです」と熱意を訴え、千とせも認めたため、正式に弟子入りした形になった。そして、千とせから漫才師として、松鶴屋一門としてのコンビ名、松鶴家二郎・次郎を授かり、漫才師としての活動が実質的に始まったのである。しかし、その芸名でもヒットに恵まれなかったため、きよしがコロムビア・ライトの付き人経験があったことから、しばらくして空たかし・きよしに改名された(ライトが相方であるコロムビア・トップと絶縁状態にあったため、青空一門ではなく個人の預かりとして芸名が青のない「空」になっている)。
ツービートに

ところが、改名に次ぐ改名でもコンビは売れなかった。そんな八方塞がりの状況で、たけしはきよしに代わって主導権を握ることに。そして、またもやコンビ名の変更を、たけしは師匠の千とせに相談した。その際、たけしは「NHK(の漫才コンクール)で、三番か四番目の(賞)しかもらえなかった。それは松鶴家が古い名前だから」と訴えたところ、千とせは「じゃあ、どんなんがいいんだ」と尋ねた。するとたけしが「(千とせ)師匠が漫才をやっていたとき、テンポのいい、ビートの利いたようなのをやっていた。だからビートの利いたのをお願いします」とリクエスト。そこで千とせが「じゃあ『ザ・ビート』にするか」と提案すると、たけしが「いや、二人だからツーに」と言及。最終的に、千とせが「じゃあツービートで」と折衷案を出し、コンビ名がツービートに改名された(この改名の経緯で広く知られているのは、たけし自身が自伝でも唱えていた別の説[注 4]で、そのボトルネックには「ツービートの師匠は松鶴家千代若・千代菊」という広く知られた誤解がある。実際の細かい経緯としては、まずはツービートの人気が出てきたところで、たけしたちが師匠である松鶴屋千とせを飛び越え、大師匠たる松鶴家千代若・千代菊に近づき、仲の良い関係を築いたという前段階があった。そして、そのころから「ツービートの師匠は松鶴家千代若・千代菊」と、たけし本人はもとより、様々な番組でも語られるようになり、今日も続く「たけしの師匠は松鶴家千代若・千代菊」という説が定着し、なかば“公の実績”を作られてしまった形になった。当時の千代若も、たけしの師匠としてテレビに出演することをすごく喜んでいたというので、芸人たちも事実を話しづらい状況ではあった。そういった経緯もあり、たけしが自伝でも千とせの存在をいっさい明かさず、「師匠は松鶴家千代若・千代菊」ということにしたため、コンビ名の決定の経緯も「自分たちで決めた」というものに改変されてしまった。千とせは、たけしが「テレビに出たい」とよく訴えていたため、テレビ東京で深夜番組をやっていた山城新伍に紹介し、ツービートを番組にねじ込んだこともあったという。だが、現在では「松鶴家千とせが師匠」という事実のみならず、ツービートのコンビ名が誕生した経緯も、すべてメディアや、たけしが自伝で語られるものが、大衆に広く信じられる「事実」と化してしまっているのである。こういった経緯は、当時を知る浅草の芸人や劇場関係者の間では周知の事実だったが、松鶴家千代若・千代菊も逝去し、松鶴屋千とせも表舞台から遠ざかった今となっては、千とせの事実を「やっかみ視」する人々、たけしの自伝を信奉する人々によって封殺され、より既成事実化が進んでいる状況となってしまっている)。

ツービートへの改名後、それでもヒットまでにはまだ紆余曲折があった。余りの受けなさに舞台で性器を露出したり、客を毒舌でいじるなどの追いつめられて行った行動が徐々にスタイルになり、ツービートの原型となったが、決定的だったのは、大阪の新進漫才師・B&B島田洋七との出会いである。後に紳助・竜介も倣う、シンプルで間を減らしたテンポの速い『16ビートの漫才』『客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才』を見て衝撃を受ける。ツービートもこれを取り入れ、たけしがひたすら猛烈な勢いでしゃべり倒し、アトランダムにきよしが突っ込む高速漫才へ変貌する。

「山形いじめ」のネタは、B&Bの「広島岡山漫才」を真似たもので、こうして開き直ったたけしは、それまでの下ネタはもちろん、差別用語から、放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものをあえて取り入れ評判を呼び、まず同業のプロ仲間から評価を上げていった[4]
テレビ進出

1970年代後半から状況はさまざまに変化を見せ、立川談志漫画家高信太郎らがツービートを評価し出し、所属事務所も太田プロダクションへ移籍し、1975年に東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『ライバル大爆笑!』でテレビ初出演。


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