ツェティニェ
Cetinje
Цети?е
ツェティニェのパノラマ
市旗市章
位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度23分19秒 東経18度55分13秒 / 北緯42.38861度 東経18.92028度 / 42.38861; 18.92028
ツェティニェ(モンテネグロ語: Cetinje / Цети?е)は、モンテネグロの都市および基礎自治体。イタリア語の名はチェッティーニェ(Cettigne)トルコ語の名はチェティネ(トルコ語: Cetine)。モンテネグロの歴史的な首都であり、かつては憲法上の首都でもあった(1992年から2007年まで、ただし行政の中心はポドゴリツァにあった[1])。基礎自治体の人口は16,657人、都市部の人口は13,918人(2011年[2])。 ツェティニェはモンテネグロの南の沿岸部の一角を占める基礎自治体であり、自治体全体での人口は、2003年で1万8千人程度。街は石灰岩の山に囲まれたカルストの内側に置かれている。街を取り囲む山のうちの一つはロヴチェン山(Mt. Lov?en
地理
ツェティニェは15世紀に建設されて以来の、多くの歴史的遺産が残っている。街はモンテネグロの歴史的首都として同国文化の中心であり、またセルビア文化、正教会にも大きな影響を与えてきた。それは、オスマン帝国によってバルカン半島の大半が支配されている時代でもモンテネグロが独立を保ち続けていたことと大きく関係している。 ツェティニェの歴史は15世紀に始まっている。オスマン帝国の拡張に対する戦争のなかで、イヴァン・ツルノイェヴィッチ
歴史
19世紀に入るとオスマン帝国との朝貢関係を脱却し、完全な独立を勝ち取るための戦争が始まり、1878年のベルリン会議でモンテネグロの完全独立が承認されると、フランス、ロシア、イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国など多くの国々がツェティニェに大使館を設置した。
ニコラ1世(Prince Nikola I Petrovi?)の統治下でツェティニェは大きく発展を遂げ、宮殿、女学校、病院などが建設された。1910年に王制に移行するとさらに開発が進み、政府庁舎などが建設された。この年の統計調査によると、人口は5,895人を数え、その多くがセルビア人であった。
後にモンテネグロはセルビアに併合され、ユーゴスラビア王国の一部となる。第二次世界大戦後、ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国として再建されたモンテネグロでは、議会が、同国の首都をチトーグラード(現在のポドゴリツァ)に設置することを決定し、ツェティニェは首都としての地位を失った[3]。 ツェティニェは、基礎自治体ツェティニェ市の中心であり、同市内で唯一人口1,000人を超える町である。 ツェティニェ市の人口推移 民族別人口(1991年) 民族別人口(2003年)
人口
1981年3月3日 - 14,088人
1991年3月3日 - 15,946人
2003年11月1日 - 18,482人
モンテネグロ人 - 93.03%
セルビア人 - 2.62%
モンテネグロ人 - 16,758人(90.67%)
セルビア人 - 853人(4.62%)
ロマ - 129人(0.16%)
クロアチア人 - 49人
アルバニア人 - 43人
ユーゴスラビア人 - 27人
ボシュニャク人 - 22人
マケドニア人 - 17人