ツィタ
Zita
オーストリア皇后
ハンガリー王妃としての戴冠
在位1916年11月21日 ? 1918年11月12日
戴冠式1916年12月30日
別称号ハンガリー王妃
ボヘミア王妃
全名Zita Maria delle Grazie Adelgonda Micaela Raffaela Gabriella Giuseppina Antonia Luisa Agnese
ツィタ・マリア・デッレ・グラツィエ・アデルゴンダ・ミカエラ・ラッファエラ・ガブリエッラ・ジュゼッピーナ・アントニア・ルイザ・アニェーゼ
出生 (1892-05-09) 1892年5月9日
イタリア王国
カマイオーレ
ピアノーレ城
ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ(ドイツ語: Zita von Bourbon-Parma, 1892年5月9日 - 1989年3月14日)は、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝カール1世の皇后。
ルクセンブルク大公マリー=アデライドとシャルロットの姉妹、ベルギー王アルベール1世妃エリザベートとはともに母方の従姉妹同士に当たる。また、シャルロットの夫フェリックスはすぐ下の弟である。
生涯
生い立ち少女時代のツィタ(1900年代)
1892年5月9日、イタリア王国のルッカ近郊ピアノーレ城で誕生する[1]。父はブルボン=パルマ家のパルマ公ロベルト1世、母はポルトガルの廃王ミゲル1世の娘マリア・アントーニアで、異母兄姉を含む24人の兄弟姉妹中17番目の子である。2日後の5月11日、洗礼を受けツィタと名付けられる[2]。カトリックの聖人ツィタ・ディ・ルッカ(イタリア語版)に由来するが、当時としても珍しい名前であった[2]。
母マリア・アントニアと後の夫となるカール大公の義理の祖母マリア・テレジアが姉妹であった関係から(つまりカールはツィタにとって義理の従兄の子に当たる)、カールはロベルト公が所有するシュヴァルツァウの狩猟館をたびたび訪れていた。そのうち、ツィタ7歳の時には歳の差を感じるとともに、弟のマクシミリアンについてよく気が付く人だという印象を与えた[3]。
1903年9月16日から、ツィタはバイエルンのツァングベルクにある聖ヨゼフ修道院で、「貴族の子女のための」教育を受ける[4][5]。当時の教師によれば、「小柄な子だったが、目的意識はしっかり持っていた」一方、公女と言う立場から友人に均等に接し「親しい友人はひとりもいなかった」という[6]。学業成績は優秀ではなかったものの、努力もあってドイツ語を習得する。1907年に、父と死別する。
1908年晩秋、ツィタは修道院の最終学年で勉学を打ち切り、翌1909年2月、ワイト島の聖セシル修道院に移り、母方の祖母アーデルハイトの下で学業を継続する。同修道院には、ツィタの長姉アデライデを始め、親族の女性たちが修道女として神に勤めていた[7]。
急な転校は、当時は、叔母マリア・テレジアが熱心に薦める、カールとの結婚からの逃避と考えられていた[8]が、母マリア・アントーニアによる、より女性として成熟してからカールと再会させる計画だとする説もある[8]。
カール大公との婚約1911年7月、婚約時代のカールとツィタ
1909年初夏、母方の従姉マリア・アンヌンツィアータとともに保養を目的として訪問したフランツェンバートにて、カール大公と再会する[9]。